テイラー・スウィフトのデビューまでの道のり

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~はこちらから!

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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『Taylor Swift入門』目次へ  (全7ページ)

 

このページではTaylorがどういった環境で育ち、どのようにして夢を持つようになったのかをお伝えします。

Taylorの道のりを知ることで、夢を追う上で具体的に何をすればいいのかが学べます。

 

【誕生】「Taylor Swift」名前の由来

 

Taylor Swiftという名前は、米シンガーソングライターであるJames Taylorr(ジェームス・テイラー)からとったと言われています。両親がJames Taylorのファンだったことに由来し、Taylorと名付けたそうです。

まるで生まれた時から歌手になることが必然だったかのような由来に思えます。

 

James Taylor(ジェームス・テイラー)とは


By Joella Marano, CC 表示-継承 2.0, Link 

1948年生まれのアメリカ合衆国出身のシンガーソングライター。2000年に「ロックの殿堂」入り。「君の友だち(You’ve Got a Friend)」で1972年にグラミー賞で最優秀楽曲賞を獲得している。

 

【幼少期】クリスマスツリーの農場

 

Taylorは「クリスマスツリーの農場」で育ったという少々意外な幼少期を過ごしました。

その環境はTaylorの歌手としての人生に多大な影響を与えたといいます。

Taylorの自由な歌詞づくりと、型にとらわれないスタイルの音楽創りには、こうした環境の影響が感じられます。

広大な土地を無制限に走り回れる自由な環境こそが、作詞作曲をする上での感性を育んだのかもしれません。

 

【11歳~】いじめの経験

 

Taylorは中学生の時にいじめを受けていました。

Taylorは辛いいじめに遭いながらも、ただ屈することなくその悔しさを音楽にぶつけていました。

毎日血の滲むような努力を重ね、暇さえあれば常にギターに触れていたといいます。彼女の等身大で共感できる作詞スタイルは、この経験からも来ていると思います。

 

Taylorが影響を受けたのは、当然ながら彼女を取り巻く「環境」だけではありません。

Taylorの母方の祖母はオペラ歌手で、テレビ番組の司会者としても活躍していたのです。祖母のMarjorie Finlay(マージョリー・フィンレイ)はオペラ歌手として活躍する一方で、教会の集会でもよく歌っていました。

さらにTaylorは、カントリー歌手LeAnn Rimes(リアン・ライムス)も幼少期から好きでした。こうした人々の影響を受けてTaylorは、歌手になるために多くの人の前で歌うにはどうすべきか考えました。

 

LeAnn Rimes(リアン・ライムス)


By https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/4008692987/, CC 表示 2.0, Link 

1982年生まれアメリカ出身のカントリー歌手。「ハウ・ドゥ・アイ・リヴ(How Do I Live)」Billboard Hot 100に69週間チャートに滞在し、当時の最高記録となった。同曲は2008年発表のBillboard All Time Top 100(50年間総合チャート)で4位となっている。

 

そこで、学校に通いながらスポーツイベントの開会式の国歌斉唱やコンテストなどの規模の大きいものから、地元のフェスティバルや喫茶店など様々な場所で歌を歌いました。最も有名なものと言えば12歳の時にNBAの試合前に国歌斉唱を行ったこともありました。

幼少期からすでに卓越した歌唱力があり、歌手としての才能は十分だったのです。

 

小さい頃から作詞をしていたと語るTaylor。

Taylorは10歳にして”A Monster in My Closet”という詩を書き作詞コンテストにて入賞しています。幼い頃から作詞における持ち前のセンスを発揮していました。

ペンシルベニア州出身であるTaylorは11歳の頃、アメリカのカントリー歌手のFaith Hillがナッシュビルに移住した後に歌手として成功したことに影響を受け、自分もカントリーミュージックの聖地ナッシュビルに引っ越す必要性があると考えていました。

そのため常々両親にも相談していたそうです。

またその頃、ナッシュビルにある多くのレーベルにデモテープを提出していましたが、若すぎるということもありなかなかその評価は上がらずにいました。

 

12歳の頃のTaylorの逸話に「コンピュータの修理士が家に来た際にTaylorにc,d,gの三つのコードを教え、その日の夜に「Lucky You」という曲を作曲した」というものがあります。

幼い頃から音楽への関心が強かったTaylorは、頭の回転が早い上に大変物覚えが良かったということがわかります。頭の回転が早いことは大人になり成熟した今も変わらぬTaylorの魅力だと思います。

そういった才能が幼い頃からありながらも、なかなか契約には結びつきませんでした。

 

【14歳~】RCAレコードと契約

 

その後、14歳という異例の若さでRCAレコードの養成所と契約したTaylor。Sony ATVミュージックパブリッシング(世界最大の音楽出版社)にソングライターとして最年少で採用されました。

異例の若さの契約を可能としたのは、大きな舞台で国歌斉唱をしたことや、その歌唱力と類まれな外見が認められたからだと思います。

それと同時にTaylorの家族は全員でナッシュビルに転居しました。Taylorに極力プレッシャーをかけないよう気遣った両親は「引越したのはナッシュビルの街が好きだからだ。」と言ってくれていたそうです。

引越しの理由は父親の仕事先がナッシュビルになったというのもありますが、おそらくそれほど引越しの必要性はなかったと思います。Taylorの夢を家族全員で応援していたそうなので、実質上はTaylorのためだったのではないでしょうか。

 

【16歳~】デビューアルバムリリース

 

Taylorは自らの作詞作曲でアルバムを出したいと考えていました。

そんな彼女の要望とは裏腹に、事務所は他のソングライターの曲を歌わせようとしました。またTaylorのアルバム出版は18歳まで待つという方針でした。

自分に意向に沿わなかったためTaylorは事務所を離れる決意をします。

 

そんな中、ナッシュビルにあるミニライブハウス”Blue bard Cafe”でパフォーマンスしていたTaylorに、Big Machine Record(ビッグマシン・レコード)を設立しようとしていたScott Borchetta(スコット・ボーチェッタ)が目をつけました。

Taylorの類いまれなる容姿とその歌声を聴けば、誰しもがスカウトしたくなると思います。

その後着実に話は進み、TaylorがBig Machine Recordの1人目の契約者となったのです。

RCA所属時は事務所の曲作りの方針と合わず悩んでいたTaylorですが「全てを彼女の好きなようにしていい」と言ったScott Borchettaとの事務所契約により、彼女はあっという間にファーストアルバムを手がけることとなります。

2006年10月24日、Taylorが16歳の時にリリースされた『Taylor Swift』は、瞬く間にBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録。

▼アルバム「Taylor Swift」(画像クリックで商品詳細へ)

▼収録曲「Teardrops On My Guitar」 Billboard Hot 100 最高13位

▼収録曲「Our Song」 Billboard Hot 100 最高16位

 

デビューアルバムにしてカントリー界の市場を制しました。こうして彼女のサクセスストーリーが始まったのです。

 

さてアルバム『Taylor Swift』でBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録したTaylorですが、このような成功の背景にはいじめを受けても努力を重ね、引越しの相談、デモテープを送るなどの行動を常にしていたことが要因に挙げられます。

Taylorには才能がありました。ただ才能があったとしても実際に活かせていない人が多くいる中、行動することが何より大切だと気づいていたTaylorは尊敬に値します。なるべくして歌手になったのだと思います。

Taylorが幼少期からどういった活動をしてきたのかその道のりを振り返ると、夢を追う上でより具体的に何をすればいいのかがわかると感じています。

 

 

このページではTaylorのデビューまでの道のりから彼女の魅力と歌手の夢を追う上で学ぶべきことをお伝えしてきました。

次の章からTaylorの人格を通して彼女の魅力や学べることについてお伝えします。

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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私がテイラー・スウィフトを手本にして歌手を目指す理由

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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Taylor Swiftの基本情報


photo by Prayitno / Thank you for (12 millions +) view ,(CC BY 2.0

名前 テイラースウィフト(Taylor Swift)
生年月日 1989年12月13日
出身地 アメリカ合衆国ペンシルベニア州
デビュー年/曲 2006年シングル「Tim McGraw(ティム マックグロウ)」アルバム「Taylor Swift」
17歳でデビューし、グラミー賞、エミー賞、ウーマンオブザイヤーなど数々の賞を受賞。過去に発売したCDの総売上枚数は4,000万枚以上、ダウンロード数は1.3億を超えている。

▼テイラーの代表曲のひとつ『We Are Never Ever Getting Back Together』MV。日本の人気恋愛リアリティー番組「テラスハウス」のオープニング。

 

はじめに

 

私は幼少期から歌手を志しています。

幼い頃から書き溜めてきた歌詞の数は150近くあり、物心ついた頃から歌手を目指す気持ちは変わっていません。

私は10歳の時、歌手としても、人としても尊敬している世界的歌姫Taylor Swiftに出逢いました。

皆さんはTaylor Swiftというアーティストをご存知でしょうか?

私がTaylorのファン(通称:Swiftie スウィフティー)になってから、もう10年が経とうとしています。まだ小学4年生だった私は、当時世界的にヒットした”You Belong With Me”のミュージックビデオを一目見た瞬間から熱烈なSwiftieになりました。

▼「You Belong With Me」のMV

 

当時はまだ年齢的な問題もあり、コンサート鑑賞や情報収集をすることも容易ではありませんでした。

そのため、彼女のアルバムを購入し毎日歌詞を完璧に覚えるまでひたすら聴きました。

中学生になる頃にはスマートフォンやパソコンを使いTwitterや公式サイトでとても深くTaylorの人間性をも知るようになりました。

中学2年生の時には、一生忘れられないかけがえのない経験もしました。

“RED Tour in Japan”の際にコンサート後のミートアンドグリート(以下Club RED)に選ばれ、実際に会って話すことができたのです。

 

【筆者注】ミートアンドグリート

ミートアンドグリートは、コンサート終了後にアーティストと交流できるイベントのことです。Taylerのコンサートの場合は、毎回コンサート中に目立っているファン(手作り衣装やボード、電飾など)をTaylorの母親が直接選び、ファンはコンサート中にバックステージパスが渡されます。私の場合はスタッフに声をかけられ、バックステージパスであるリストバンドをはめてもらいました。

▼ミートアンドグリートの詳細は第2章1ページ目にて

 

Club REDで彼女が真っ先にきつくハグをしてくれたあの瞬間を私は生涯忘れることはないでしょう。

さらに私はClub REDでTaylorに「歌手になって必ずもう一度会いたい。」と約束をしました。

この時から、私はただSwiftieとしてTaylorを応援するだけでなく、自らが歌手を目指す上で彼女を絶対的ロールモデルにしようと決めました。

▼歌手を目指す筆者の様子(YouTube)

 

Taylorをロールモデルにした理由

 

ロールモデルとは行動面や精神面において手本とする人物のことです。誰かしらをロールモデルにする上で、その人物像は大変重要になってきます。

私は一人でも多くの人にTaylorの魅力をより深く知ってもらい、ロールモデルとして彼女のような人物を目指して欲しいという願いからこのWebonを作成しています。

私がTaylorをロールモデルとして捉え始めた理由は、彼女のアーティストとしての振る舞い方と曲の中にあります。

アーティストとして長く生き残るためには、常に新しいものを発信し続けなければいけません。加えて、ただ新しいだけではなくファンの心を掴むものである必要性もあります。

新しいものを生み出していかなければならないのは、何もアーティストという職種だけに限らないでしょう。様々な職場で創造性は重要視されます。Taylorはそういった点においてとても長けています。

 

多くの人の心を掴んで離さないTaylorの戦略

 

わかりやすい例として、Taylorの新曲を出す時の戦略です。たとえば、先日Taylorが約1年半ぶりにニューシングル「ME!」をリリースしました。

▼「ME!」MV

 

このシングルをリリースするにあたり、Taylorはおよそ2ヶ月前からInstagramにおいて継続的にニューシングルを匂わせるような投稿をしていました。

 

【コラム】ニューシングルを匂わせるようなInstagramの投稿

ニューシングルを匂わせる投稿で最もわかりやすかったのが、以下の投稿です。

 

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Taylor Swiftさん(@taylorswift)がシェアした投稿 –

もともとTaylorが次に出すであろうアルバムは、まだリリースされておらず名前も当時決まっていないためファンの間では通称「TS7」と呼ばれていました(彼女の7枚目のアルバムにあたるため)。Taylor自身も、ファンがTS7を期待していることは知っていました。その最中、ヤシの木の絵文字を7個だけつけてこの画像を投稿したので「次のアルバムがもうすぐくるはずだ」と皆期待しました。さらに、一つ前の作品である「Reputation」のリリース時もそうでしたが、Taylorは必ずアルバムのコンセプトにそった投稿をしていました。前回はダークなイメージのアルバムだったので蛇や暗い感じの画像・動画を投稿していました。しかし今回はパステル調のピンクがかったフィルターのみを使い連続して投稿していたため、新たなアルバムが出るのではないかという期待が高まりました。

 

さらに、日本、アメリカ、イギリス、オーストラリアを含む各国の大きな電光掲示板にて謎のカウントダウンをしていました。そしてそのカウントダウンが0になった時、新曲がリリースされたのです。

▼カウントダウンの様子(日本)

 

カウントダウンによりあらかじめ世間の目を引いたことで、世界的に話題となった状態でのリリースとなりました。こういった言わばTaylorの「戦略」が、ファンだけでなく多くの人の心を掴んで離さないのです。

ファンを飽きさせないという最も大切なことを彼女はし続けているのです。

多くの海外セレブがプライベートな話題で世間を騒がせている中、Taylorは常に新たな曲作りに勤しんでいます。

そして、評判が地に落ちてしまったとしても逆境に負けることなく、むしろそれを逆手にとって這い上がるのです。1人の人間としてもアーティストとしても、生涯尊敬し続けられる人物こそがTaylor Swiftだと私は思っています。

 

 

Taylorは中学生の時にいじめられていた経験があります。いじめられていた辛い時期を乗り越え、血の滲むような努力をし夢を叶えたTaylorの言葉に励まされる人は多く、私自身も幾度となく助けられました。

また、Taylorはデビュー後にサインを求めてやってきた元いじめっ子たちに快く対応したと言います。後のインタビューでは「惨めな思いをして学校に通っていた経験がなければここまでいい曲は書けなかった。いじめっ子たちにありがとうと伝えたい。」とさえ語っていました。

現にTaylor自身の経験に基づいたその自叙伝的な歌詞の数々に、多くの人々が魅了されています。頭身大で親しみやすく、共感しやすいからです。

世界に名を馳せても、ファンへの心遣いを忘れず常に人を楽しませられるアーティストであること。いつまでも初心を忘れない謙虚さや、ファンを大切にする人柄が彼女の最大の魅力といえるでしょう。

そんな彼女の魅力を是非知っていただきたいです。そして、これから夢を目指す方は彼女をぜひロールモデルにしてみてはいかがでしょうか。

このWebonでは実際にTaylorをお手本に歌手を目指している私が、どういったことをTaylorから学んでいるかをお伝えしながら、Taylorの魅力を明らかにしてきたいと思っております。

次の章ではTaylorの「デビューまでの道のり」に焦点を当てて、Taylorの魅力やTaylorから私が学んだことをお伝えしたいと思います。

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著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~


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はじめに

私は10歳の時、世界的歌姫Taylor Swiftに出逢いました。まだ小学4年生だった私は”You Belong With Me”のMVを一目見た瞬間から熱烈なファンになりました。そして私はTaylor本人に会って「歌手になって必ずもう一度会いたい」と約束をしました。なぜ私がTaylorをお手本に歌手を目指すのか、それはTaylorのことを深く知ればきっとご理解いただけるはずです。

私がテイラー・スウィフトをお手本にして歌手を目指す理由

第1章 Taylorのデビューまでの道のりから学ぶ

Taylorは中学生の時にいじめを受けていました。しかしTaylorは屈することなくその悔しさを音楽にぶつけていました。Taylorのデビューまでの道のりを知ると、歌手を目指す上で何が大切かが学べるように感じます。

デビューまでの道のり


photo by Eva Rinaldi,(CC BY-SA 2.0) 

第2章 Taylorの人格から学ぶ

Taylorは素晴らしい人格の持ち主で学ぶべきところが多いです。この章では「ミートアンドグリート」に参加した体験談からTaylorがファンとの繋がりをいかに大切にしているかということと、「セクハラ裁判」「トランプ政権への言及」からどのように社会貢献を果たしているかをお伝えします。

Swiftieとの交流
社会への貢献

第3章 Taylorの音楽の変遷から学ぶ

この章ではTaylorの音楽の変遷を通して、Taylorの魅力やTaylorから歌手の夢を目指すためのお手本としてどのようなことを私が学んだかをお伝えしたいと思います。

原点「カントリーミュージック」
ポップへの転身と批判
グッドガールのイメージから一変したアルバム

著者 Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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KANとは ~稀有な存在のソングライター~

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KANさんは200万枚を超える大ヒット曲「愛は勝つ」で有名ですが、この曲はKANさんのほんの一面に過ぎないのです。ファン歴30年がKANさんの魅力を人柄・ライブ・楽曲に分けて徹底解説!

『KAN』入門 ~「愛は勝つ」だけじゃない!天才であり変態!類まれなソングライター~はこちらから!

著者:しあ

40代後半女性。KANのファン歴30年。1988年「BRACKET」を聴いて感動したのが出逢い。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。

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KANとは ~基本情報~

名前 KAN
本名 木村 和(きむら かん)
生年月日 1962年9月24日
出身地 福岡県福岡市
デビュー年/曲 1987年4月アルバム『テレビの中に』でデビュー。
1990年9月にリリースされた8枚目シングル「愛は勝つ」がフジテレビ系「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」の挿入歌として人気を博す。累計売上201.2万枚を記録(1991年度オリコン年間3位)。1991年には第33回日本レコード大賞を受賞し、同年の紅白歌合戦にも出場。


▼『よければ一緒に』PV

 

「愛は勝つ」という国民的大ヒット曲を持つKANさん。

KANさんの名前は知らなくても「愛は勝つ」という楽曲は、多くの人が知っているのではないでしょうか。

この曲が大ヒットしてから、もう30年近くなりますので、当時のことを知らない若い世代の方はKANさんの事をよく知らないかも知れません。

また、あまりにも「愛は勝つ」が大ヒットしすぎて、KANさんの他の楽曲やKANさんというシンガーソングライターそのものについてもよくわからない、という方もいるかと思います。

 

日本の「ビリー・ジョエル」「天才であり変態」

 

私はKANさんの事を「日本のビリー・ジョエル」「天才であり変態」と思っています。

「変態」という言葉はいい意味で使っています。

大ヒット曲があるとそれに縛られて本来の自分が出せなくなることもあるかと思います。ただ、KANさんには「大ヒット曲の呪縛」というものがなく、自由に様々な楽曲を生み出しています。

「愛は勝つ」が、KANさんの全てではありません。

他の曲を知ることで「こんな素晴らしい曲があったのか」と、KANさんの才能に気づかされるかと思います。

KANさんを知れば知るほど「愛は勝つ」が、KANさんの一面にしかすぎないことがわかることでしょう。

KANさんはビリー・ジョエルとの出逢いで、本気で音楽を志すようになりました。KANさんは自らが尊敬するビリー・ジョエルのように、とてもピアノが上手で、ピアノ一本で音楽を伝えられる人です。

 

ビリー・ジョエル

1949年生まれ。アメリカ出身のシンガーソングライター。全世界で1億5000万枚以上のレコード・セールスを記録。1973年にリリースのアルバム「ピアノ・マン」が大ヒットとなる。

▼「ピアノ・マン」公式MV

 

ピアノをさらに勉強するために音楽活動を一時休止し、フランスへ留学していたこともありました。

その際には「フランス人になりたいという夢を叶えるため」という、KANさんらしいユーモア溢れるふざけたコメントも残しています。

実はKANさんは、とっても遊び心満載のエンターテインメント精神溢れる人なのです。

 

 

エンターテインメント精神溢れる人物

 

ライブは「弾き語り編」「バンド編」の2種類に分かれています。

弾き語り編は、KANさんのピアノ1本でライブ(またツアー)が行われます。

バンド編では多くの趣向を凝らし、バンドメンバーと共にエンターテインメント性の高いステージを繰り広げています。

衣装に凝っていることでも有名。

でも、奇抜な衣装や、ちょっとしたおふざけがあっても、KANさんの基礎には素晴らしい音楽センスがあるから、何をやっても許されるのです。

▼奇抜な衣装の例

 

KANさんは、アーティストの友達も多く、若い世代のアーティストからはリスペクトされている存在。

 

KANさんをリスペクトするアーティストの例

Mr.Childrenの桜井和寿/TRICERATOPSの和田唱/山崎まさよし/ASKA(CHAGE and ASKA)/スターダスト・レビュー/杉山清貴/馬場俊英/などなど…。KANさんの仲間については詳しくは第1章にて紹介!

 

お互いのライブに参加したり、コラボ楽曲などもあります。

KANさんがいろいろなことをしているので、スターダスト・レビューの根本要さん※からは「才能の無駄遣い」と言われています。

また、KANさんは、中国語、イタリア語、フランス語も勉強していて、日常会話には困らないほど。

旅行にもよく行っていて、ラジオ番組では旅先でのエピソードや、現地で買ったCDなどをかけたりしています。

 

スターダスト・レビュー根本要

スターダスト・レビューの代表曲はシングル売上約15万枚の『木蘭の涙』。カルピスのCMに『夢伝説』が起用され世間に広く認知された。デビュー35周年を迎えた現在も年間70本を超える全国ツアーを展開してる。根本要は同バンドのボーカル。(関連;『スターダスト・レビュー入門』(全14ページ)

 

筆者とKANの出逢い

 

私が初めてKANさんを知ったのは、1987年のセカンドシングルでありアルバム「No-No-YESMAN」にも収録されている『BRACKET』という曲です。

▼「BRACKET」

 

NHKの人気音楽番組「JUST POP UP」でピアノを弾きながら歌っているのを見て「めちゃめちゃいい曲!」と感動しました。

イントロ、間奏にたっぷりピアノが使われていて、その軽快さ美しさに一目ぼれ、というか一聴ぼれしたのです。ボーカルはもちろん間奏のスキャットが新鮮で、激しく足を動かしながらピアノを弾く姿もとても印象的でした。

 

スキャットとは

主にジャズで使われる歌唱法で「ダバダバ」「ドゥビドゥビ」など意味のない音を即興的につないで歌うこと。

▼スキャットで有名な楽曲。スキャットマン・ジョン『スキャットマン』

 

すぐにアルバムを買って聴きこみましたが、この頃のKANさんは、まだそんなには世間に知られていませんでした。

後に「愛は勝つ」が大ヒットした時に、「才能がある人は、やはり世の中に出ていくのだな~」と思いました。

このWebonでは類まれなる才能の持ち主で、稀有な存在であるKANさんの魅力についてお伝えしたいと思います。

まず第1章では4ページにわたって、KANさんの人柄について紹介します。次のページではKANさんの経歴を紹介します。

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著者:しあ

40代後半女性。KANのファン歴30年。1988年「BRACKET」を聴いて感動したのが出逢い。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。

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1990年代とはどんな時代だったのか?

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あなたにとっての“あの頃”はいつですか?著者にとってアツかった時代「90年代」のJ-popヒット曲を生粋の邦楽ファンの著者が分析します!読めば“あの曲”を聴きたくなる事間違いナシ!!

90年代J-popヒット曲入門 ~音楽で振り返る90年代!~(全11ページ)はこちらから!

著者 シン アキコ

30代前半女性。邦楽ファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛しています。「歌詞」「曲が生まれた背景」「当時の流行との関連性」などを分析することが好き。

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『90年代J-popヒット曲入門』目次へ  (全11ページ)

 

このWebonでは1990年代と当時のJ-POPシーンについて語ります。

このページでは筆者がなぜ1990年代J-POPが好きなのか、なぜ魅力的だと思うのか、どういった思い入れがあるかなどをお伝えいたします。

 

1990年代の主要な出来事一覧

年代 出来事
1990 『ちびまる子ちゃん』放送開始/スーパーファミコンがヒット/大学入試センター試験開始
1991 バブル崩壊/「お立ち台」ディスコジュリアナ東京オープン/『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』等のトレンディドラマが全盛期
1992 日本人宇宙飛行士の毛利さんが宇宙へ/『美少女戦士セーラームーン』放送開始/学校週5日制スタート
1993 コギャルブーム/Jリーグ開幕/ポケベル普及
1994 ドラマ『家なき子』アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が放送/プレイステーション発売
1995 阪神淡路大震災/地下鉄サリン事件/Windows95発売
1996 アムラー/プリクラ登場/たまごっちブーム
1997 消費税5%に引き上げ/映画『タイタニック』『もののけ姫』ヒット
1998 長野オリンピック/お笑いコンビパイレーツの『だっちゅーの』が流行る
1999 iモードサービス/「2000年問題」が提起される/『だんご3兄弟』約290万枚の大ヒット

▼宇宙飛行士の毛利さん

パブリックドメイン

▼たまごっち

By Tomasz Sienicki [user: tsca, mail: tomasz.sienicki at gmail.com]投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

 

はじめに

 

「あのころに戻りたい」そんなふうに思えるかけがえのない時間が、誰の心にもあるでしょう。

時折心を傾け懐かしむだけで「明日からまた頑張ろう!」と思える、いつも心の奥で自分を支えている「あのころ」。

今回語るのは筆者にとっての「あのころ」。

1990年代と当時のJ-POPシーンです。

筆者は1980年代後半生まれ。物心がつき思春期を迎えるまでの、人生で最も色濃く、単純に楽しかった時間、多感な時期を過ごしたのが90年代にあたります。

近年、90年代を彩ったアーティストたちがだんだんと姿を消していくのを見て、平成の終わりとともに自分の青春の終わりを感じています。

いつからでしょうか、ドラマやバラエティ番組を心待ちにしなくなり、CDも買わなくなってしまいました。自分自身も変わったくせに「時代が変わったのだな」と、世の中のせいにして勝手に寂しがっている日々です。

戻りたい。時々強くそう思います。

 

1990年代はどんな時代だったのか?

 

「1990年代とはどのような時代だったか?」当時を知る人はなんと答えるでしょうか。

良い時代であったかどうかは別として、間違いなくアツイ”時代であったと私は思います。

現在より娯楽が少なかったことも要因のひとつですが、なんでもブームになった時代。ひとつのことに注ぐ熱量が、現代とは桁違いでした。

 

【1990年代のブームの例】

●インターネット文化の浸透1992年に日本初のウェブサイト誕生。1997年にYahoo!Japanサービス開始
●Jリーグブーム
Jリーグは日本のプロサッカーリーグ。1993年に設立
●アムラー
:1995年をピークに流行。歌手の安室奈美恵のファッションを模倣する若者が多く登場した。
●コギャルブーム:1996年頃から本格的にブーム。コギャルは、金髪にして肌を黒くする「ガングロ」というスタイルが特徴

 

▼1990年代登場したコギャル


By pepewk – https://www.flickr.com/photos/jennywebber/272217707/, CC 表示 2.0, Link 

 

1990年代はバブル経済の崩壊」「阪神淡路大震災」「松本サリン事件」「少年犯罪の増加」など、暗いニュースが多かった時代です。けれどもそれらに屈することなく、素晴らしいエンターテインメントが次から次へと誕生した、そういうエンタメ文化の「アツさ」を私は感じていました

音楽面においてはGLAY EXPO(音楽史上最大動員数)」「宇多田ヒカルファーストアルバム「First Love」(歴代アルバム最大セールス)」など、数々の新記録が生まれました。

ミリオンセラーも他の年代に類を見ないほど連発した時代。肝心の音楽については、次の章からたっぷりと語らせていただきます。

 

1990年代は、始まりと終わりの時代でした。

元号が変わり、たった数年で90年代に突入。同時に世紀末という大きな節目、ひとつの終わりに向かって進むというどこか不思議な空気をまとっていました。

そもそも1999年には人類が滅亡するとも言われていたのだから、パッと咲いて消える花火のように、 いけいけどんどんの精神が誰の心にも少しくらいあったのかもしれません。

 

1999年には人類が滅亡する噂

「1999年7月に人類が滅亡する」という「ノストラダムスの大予言」が広く流布していた。

 

だからでしょうか。

私よりいくらか年上の世代、この時代まさに青春を送った若者たちは、流行に非常に敏感であったし、楽しむ天才・楽しみを創り出す天才であったように思います。

変化する時代についていくばかりか、自分たちでブームを生み出していました。現に彼らは今もパワフルであり、パイオニアであり続けています。

◆バンドブームを彩った90年代デビューバンドが今も現役でいること
◆同じく90年代デビューのアイドルがいまも“アイドルとして”現役でいること
◆90年代デビューのアクターが今も“主演として”現役で活躍していること

当時では考えられなかったことであり、想像もしていなかった未来でした。

 

そして歌は世につれ世は歌につれ。

90年代のJ-POPシーンは実にアツイものでした。

「90年代感」といえば伝わる人もいるでしょう。いずれのヒット曲も、まごうことなき「90年代感」をまとっています。

聴いた瞬間、それこそイントロから「あの時代」に一気に引き戻されます。90年代のJ-POPが放つ引力はある意味「力技」です。

 

1990年代は終わったが音楽は生き続ける

 

90年代はとうに終わりました。

リスナーだった我々も、もう子どもでなければ若くもない。憧れた当時の彼らの年齢などはるか昔に追い越してしまいました。

それでも名曲たちは、一瞬で私を無垢な子どもに引き戻してくれる。多感な女の子にしてくれます。

街角でふいに90年代の曲に出会ったそのとき、思い出す情景や匂いもあれば、新しく生まれる感情もあります。

私たちは、生きている間にそれを何度も繰り返します。

曲と再会するたびに新しい側面が何通りも見えてきます。当時の想い出を多角的な方向から振り返ることができ、そのたび想い出が増えていく。

 

時代を超え、発売当初に産まれていなかった子どもが口ずさんでいたりします。

私たちが愛した名曲はそうして永遠に生きていく。

音楽は変わらない「核」を持ちながらも、変化してゆくものなのだとつくづく感じます。
なんとなく元気のない時代だからこそ、そして新しい時代のはじまりを迎える今だからこそ、1990年代のJ-POPが放つ“力技”のメッセージを伝えたいのです。

 

次の章からは実際のヒット曲を例に出し、その魅力やヒットの背景を独自に解説していきます。ぜひ改めて聴いていただきたいですし、ともに語り継いでもらいたいです。

当時を知らない世代には、色褪せない名曲たちが持つパワーが伝われば幸いです。

そして一番の願い。

読んでいただく皆様へ。ほんのひととき一緒に、あの時代へと戻りましょう。

『90年代J-popヒット曲入門』目次へ  (全11ページ)



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目次著者

著者 シン アキコ

30代前半女性。邦楽ファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛しています。「歌詞」「曲が生まれた背景」「当時の流行との関連性」などを分析することが好き。

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ファンが伝える!邦楽ミュージシャン入門

 

Webonでは音楽ファンの方が様々な邦楽ミュージシャンの入門コンテンツを作成しています。

ファンの方によって作られた、ミュージシャンへのリスペクトと愛がこもった入門コンテンツを読めば、そのアーティストのことをより深く学べることでしょう。

このページは、邦楽ミュージシャンの入門コンテンツをデビュー年代ごとにまとめたものです。ぜひ、お気に入りのミュージシャンを探してみてくださいませ。

 

70年代デビュー

 

 『山下達郎』入門 ~極上の音楽空間~(全14ページ) 

山下達郎さんは「音の職人」「音楽界の宝」と称されます。テレビやライブの映像を解禁しないため、動く達郎さんが観られるのはライブだけ!プレミアムチケットになっているライブの魅力をお伝えします。

 

▼『山下達郎入門』はこちらより

 

 スターダスト・レビュー入門 ~日本一のライブバンドと言える理由~(全14ページ) 

数百本の音楽ライブに足を運んだ筆者が「日本一のライブバンド」と称するスターダストレビュー。その理由を知ればきっとライブ会場に足を運びたくなるはず!

 

▼『スターダスト・レビュー入門』はこちらより

▼ダイジェスト版はこちら!

 

80年代デビュー

 

 『岡村靖幸』入門 ~超個性的シンガーの魅力に迫る~(全13ページ) 

「岡村靖幸」は、DAOKO、小出祐介などと若手アーティストとのコラボで再び注目を集めていますが「あのスーツのおじさんは誰?」と思っている方も多いかと思います。岡村さんはとても魅力的なアーティストですが、その反面少し気持ち悪くもあります。岡村さんの場合はむしろその気持ち悪さが「かっこいい」のです。

 

▼『岡村靖幸入門』はこちらより

 

 『角松敏生』入門 ~こだわり抜かれたサウンドの世界~(全15ページ) 

角松さんはキラキラとしたおしゃれなサウンドが特徴で「シティポップの貴公子」と称されることも。手掛けた楽曲である『WAになっておどろう』は長野オリンピックのテーマソングになりました。世間的な知名度はあまりありませんが、音楽のクオリティの高さなどから、音楽関係者のファンも多いです。こだわりの抜かれたサウンドの世界に、角松サウンドの世界に触れてみてはいかがでしょうか。

 

▼『角松敏生入門』はこちらより

▼ダイジェスト版はこちら!

 

近年の邦楽ロック事情を知る

 

 邦楽ロック入門 ~近年注目のおすすめバンドを聴こう~(全12ページ) 

近年の邦楽ロックでは「エモい」「ボーカロイド」など多くの注目すべき熱いジャンルがあります。ジャンルごとのおすすめアーティストを知ることで、自分の好みに応じた楽しい邦楽ライフをお過ごしください!

 

▼『邦楽ロック入門』はこちらより

5分でわかる!角松敏生 ~ファンが語る概要と魅力~

 

このページでは「角松敏生」がどんなミュージシャンなのかを大体5分で理解できるように概要とともに魅力をお伝えします。

もちろん角松敏生さんを5分で説明しきるのは困難ですので、さらに深く知りたい方は『角松敏生入門』をご覧ください。

※このページはWebon編集部が角松敏生ファン歴30年以上のしあ氏による『角松敏生入門』の内容をまとめたものです。

 

▼『角松敏生 入門』(全15ページ)

 

 

角松敏生とは ~クオリティが高い!知る人ぞ知るミュージシャン~

名前 角松敏生(かどまつ  としき)
生年月日 1960年8月12日
出身地 東京都渋谷区代々木
デビュー年/曲 1981年にシングル『YOKOHAMA Twilight Time』アルバム『SEA BREEZE』でデビュー

 

角松敏生さんは1981年デビューのシンガーソングライターです。

キラキラとしたおしゃれなサウンドが特徴で、デビュー当時は「シティポップの貴公子」というキャッチコピーがついていました。

手掛けた楽曲『WAになっておどろう』はNHK「みんなのうた」で話題になり、長野オリンピックのテーマ曲になりました。

角松さんは「杏里」「西城秀樹」「中山美穂」をはじめとした多くのアーティストに楽曲提供をしており、杏里さんに提供した『悲しみがとまらない』が大ヒット(1984年のオリコン年間19位)。

 

▼悲しみがとまらない:杏里さんの代表曲のひとつ(提供曲について詳しくはこちら

 

角松さんにはとても熱狂的なファンが多く、音楽のクオリティの高さなどから音楽関係者のファンも多いです。

ただ、世間一般的にはあまり知名度がありません。

なにしろ長い音楽生活の中で代表曲というものがありません。それが世間での評価につながっていない理由の一つであると思いますし、この辺りは角松さん本人も自虐的に語る部分です。

しかし一度でも「角松敏生のサウンド」に触れてもらえれば、その素晴らしさにきっと感動してもらえるはずだと思います。こだわりにこだわりぬき、決して妥協しないその音創りは音楽マニアにはたまらないものなのです。

 

角松敏生氏のサウンド魅力について詳しくはこちら!

 

フュージョン界に大きな影響を与える!

 

角松敏生さんは1987年、1990年に2枚のインストゥルメンタル(歌のない曲)アルバムを発表し、とても高い評価を受けました。

 

▼1987年リリース「SEA IS A LADY」(画像クリックで商品詳細へ)

▼1990年リリース「Legacy of You」(画像クリックで商品詳細へ)

 

このアルバムはフュージョン界に大きな影響を与えました。

 

フュージョンとは

フュージョンは音楽のジャンルで電子楽器を使用したジャズのようなもの。

▼日本で活躍するフュージョンバンド「T-SQUARE」の代表曲

 

 

1980年代前半に「ザ・スクエア(現T-SQUARE)」などによるフュージョンブームが起こりましたが、1980年代後半にはそのブームも停滞気味でした。

そんなフュージョンブームが停滞気味の中、シンガーソングライターの角松さんがインストアルバムをリリースしたことで大きな話題となりました。

この頃はフュージョンやインストを聴くファン層と、歌物を聴くファン層とには割と隔たりがあったように思います。

ですが、角松さんがインストアルバムをリリースすることにより大きな話題を呼びました。角松ファンはもちろん、普段フュージョンを聴かない層にもフュージョンの門戸を広げることになりました。

ちなみに1987年リリースの「SEA IS A LADY」は2017年に「SEA IS A LADY 2017」としてリメイクされ、日本ゴールドディスク大賞の「インストゥルメンタルアルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。

 

▼アルバム「SEA IS A LADY 2017」(画像クリックで商品詳細へ)

 

ギタリストとしての角松敏生氏の魅力について詳しくはこちら!

 

謎の覆面バンドとして活動した?

 

角松敏生さんは活動を無期限休止としている時期がありました。

その時に、「角松敏生」という名を伏せて謎の覆面バンド「AGHARTA」として活動していました。

AGHARTAの楽曲『WAになっておどろ』がNHK「みんなのうた」に採用されたこともあり大きな話題となります。そして『WAになっておどろう』は長野オリンピックのテーマソングになりました。

 

「AGHARTA」の活動について詳しくはこちらのページで解説

 

ぜひ聴いて欲しい!定番の名曲10選!

 

角松さんに名曲が多くあります。ここでは定番の名曲をいくつかご紹介します。

 

▼厳選!定番の名曲10選

曲名 収録アルバム
NO End Summer GOLD DIGGER(1985)
Tokyo Tower GOLD DIGGER(1985)
Girl in the Box 1981~1987(1993)
初恋 T’s 12 INCHES(1986)
Take You To The Sky High Breath From The Season 2018~Tribute to Tokyo Ensemble Lab~(2018)
飴色の街 Reasons for Thousand lovers(1989)
IZUMO INCARNATIO(2002)
浜辺の歌 1998~2010(2011)
ハナノサクコロ Fankacoustics(2004)
RAMP IN T’s BALLAD(1985)

 

NO End Summer

 

『NO End Summer』は角松ファンの間でもとても人気の高い名曲。

ピュアな想いが綴られたスイートなラブソング。

ラストの

「Love is you Love is me Love is the neighbor Love is the everything」

のコーラスはライブではみんなで大合唱。

聴くたびに感動する、とてもとても大切な曲です

 

Tokyo Tower

 

角松敏生さんの定番曲のひとつ『Tokyo Tower』。

ラップから始まるこの曲のカッコよさと言ったら!

まだラップが今ほど認知されていなかった1985年当時、ラップやスクラッチを取り入れた角松敏生を代表する、最高にファンキーでダンサブルなナンバー。

歌詞の内容がセクシー。リリース当時NHKでは放送禁止に。

歌詞がセクシーすぎるから?と思っていたのですが、商標名だから連呼するのはダメなんだそう。

 

Girl in the Box

 

『Girl in the Box』も角松敏生を代表する楽曲。

オリジナルアルバムには未収録ですがとても人気の高い曲。

「箱入り娘」をこれほどカッコよく歌うアーティストがいたでしょうか(笑)

夜10時になると、好きな女性が自分の手をすり抜けていってしまうもどかしさが描かれています。

こちらもNHKで放送禁止に。

私は、なんとなく門限破りを推奨するような歌詞だから?と思っていたのですが、「気が狂いそうさ」という部分がダメだったそうです。

ライブでは、ラストの部分でみんなで何度もジャンプするのが楽しい!

 

角松敏生氏の定番の名曲について詳しくはこちら!

 

ライブで用意しておきたい「紙ヒコーキ」

 

角松ライブに参加する際に、用意しておきたいのが紙ヒコーキです。

「TAKE YOU TO THE SKY HIGH」の時には観客は一斉にステージに向かって紙ヒコーキを飛ばします。

カラフルな色の紙ヒコーキが飛ぶかう光景は、とても楽しく美しい。

特に2階席前方から見る光景は圧巻です。

 

 

私が初めて行った角松さんのライブで、座席が2階の1列目真ん中だったんです!

そこで見た、紙ヒコーキが一斉に舞う姿は鳥肌ものでした。

後ろからも降ってくるし、下を見ればぐるぐると舞っているし、あの光景は今でもはっきりと覚えています。

何度も何度も紙ヒコーキを折り飛ばしてきたので、折り方も紙の選び方も上手くなりました(笑)

 

角松敏生氏のライブの魅力について詳しくはこちら!

 

以上、角松敏生さんの紹介でした。

『角松敏生入門』では角松敏生さんのことをさらに深く知ることができます。ぜひともご覧くださいませ!

▼『角松敏生』入門(全15ページ)

 

角松敏生入門の目次著者

著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP K-POP 洋楽 演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

お問い合わせはこちらから

5分でわかる!スターダスト・レビュー ~ファン歴24年が語る概要と魅力~

 

このページでは「スターダスト・レビュー」がどんなバンドなのかを大体5分で理解できるように概要とともに魅力をお伝えします。

もちろんスターダスト・レビューさんを5分で説明しきるのは困難ですので、さらに深く知りたい方は『スターダスト・レビュー入門』をご覧ください。

※このページはWebon編集部がスタレビファン歴24年のしあ氏による『スターダスト・レビュー入門』の内容をまとめたものです。

 

▼しあ氏 著『スターダスト・レビュー入門』(全14ページ)

 

スターダスト・レビュー(スタレビ)とは

基本情報

グループ名 スターダスト・レビュー
通称 スタレビ
メンバー ・根本要(ボーカル/ギター)写真右から2番目
・柿沼清史(ベース/ボーカル)写真左から2番目
・寺田正美(ドラムス/ボーカル)写真左
・林“VOH”紀勝(パーカッション/ボーカル)写真右
デビュー 1981年5月25日シングル『シュガーはお年頃』アルバム『STARDUST REVUE』でデビュー

▼スターダスト・レビュー(スタレビ)の代表曲「木蘭の涙」

 

スターダスト・レビューってどんなバンド?

 

スターダスト・レビュー(通称スタレビ)は、男性4人組の音楽グループ。

1984年にリリースされた『夢伝説』カルピスのCMに起用され世間に広く認知されました。

 

▼『夢伝説』ライブ映像

 

代表曲は1993年にリリースされシングル売上約15万枚の『木蘭の涙』。2005年にはニッカウヰスキーのCMにアコースティックバージョンの『木蘭の涙』が起用されました。

 

▼スターダスト・レビュー(スタレビ)の代表曲「木蘭の涙」

 

ただ、スターダスト・レビューは知名度は高いとは言えません。ファン歴24年のしあ氏は以下のように語ります。

「私はスタレビの大ファンなのですが、初めて会う人と好きなアーティストの話になった時には必ず『知らないかもしれませんが~』という枕詞を使ってしまいます。これは『スタレビファンあるある』で、私だけではなく多くのファンに通ずるスタレビの知名度の低さゆえの悲しい性なんです。」

ライブ鑑賞歴数百本のしあ氏はスタレビを「日本一のライブ・バンド」であると思っているそうです。

その理由は「今まで行ったアーティストのライブはどれも全てよかったです。本当に感動したもの、楽しかったものが多く、どのライブが一番よかったと比べられるものではありません。

でも、スタレビと比べるとどのライブもスタレビを超えないんですよね。スタレビの他にも大好きなアーティストはたくさんいるけれど、私にとってスタレビは殿堂入りしていて絶対王者なんです。私は今までスタレビにがっかりしたことがないんです。盲目的なファンではありませんが、スタレビの悪いところが見つからないというのでしょうか。」

スタレビは、デビュー35周年を迎えた現在も年間70本を超える全国ツアーを展開しています。ライブ・パフォーマンスに定評があるバンドなのです。

 

スタレビのライブはなぜ日本一なの?

 

スターダスト・レビューはどんなにキャリアを積み重ねても決しておごらず常に低姿勢で、1曲1曲終わるごとのお辞儀は深く、ファンへ感謝の言葉を投げかけます。

「『高い音楽性と低い腰』これこそがスタレビの生命線であり、それがここまでライブバンドとしてのキャリアを積み重ねることができた要因だと思うのです。」としあ氏は語ります。

 

スタレビがライブに力を入れてきたのは、CDの売り上げやTV出演を主な活動場所にしなかった・・・できなかったから。でも、そのことで全国各地で確実にファンを増やし、そのライブパフォーマンスは年々高くなり、今では「日本屈指のライブバンド」と呼ばれています。

 

スタレビのライブは誰もが楽しめるエンターテイメント性も魅力です。

スタレビのボーカル・根元要さんは「知らない曲はみんな新曲です」と言います。曲を知らなくても大丈夫、それでも十二分に楽しめるのがスタレビライブなのです。

スタレビのライブは通常のツアーだと3時間半~4時間近くなりますが、そんな長時間を感じさせない全然飽きさせないライブです。

 

▼ライブの魅力の詳しい解説はこちら!

 

ボーカル根本要のMCが面白い!?

 

スターダスト・レビューを語るとき「根本要さんのトーク」は絶対に欠かせません。要さんのおもしろいトークは誰もが認めるところです。

 

気配りがあり、決して人を傷つけないトークで笑いを起こして、みんなを笑顔にします。

要さんは、スタレビのことを自虐的に語ることがありますが、ファンは目の前で自虐ネタを言われても全然嫌な気持ちになりません。要さんは自虐を言いながらも、スタレビのファンに対して最大の感謝があるのです。

以下は数年前のライブでの、根本要さんのMC

「今さ、ここでコンサートやってるじゃん? 今、街中に出たらスタレビのファンは一人もいないよ。 だってみんなここに来てるんだもん。ここの人たちがすべてだもん。 みんなおかしいよ、だってスターダスト・レビューに出会うって、プールに落ちたコンタクトレンズを拾うようなものじゃん? なかなか見つけようと思っても見つけられないよ?」

これにはみんな大爆笑。

「みんなおかしいよ、お前らおかしい」

は、要さんがよく言う言葉。

みんなおかしいと言われながらもファンは喜んでいます。

 

▼根本要氏のMCの魅力について詳しくはこちら!

 

ファンへの愛の深さがすごい!

 

スタレビはファンへの愛が深いです。それはCDやチケット代などにも表れています。

とにかくスタレビはファンの金額的負担を少なくしたいそう。アーティストやミュージシャンはそんなに儲けなくていい、できるだけ価格を安く、というのがスタレビのモットー。

スタレビほどキャリアを積むと、チケット代も8,000円~9,000円台になるかと思いますが、ツアーのチケット代はいまだに6,000円台。

さらに25歳以下と65歳以上、障がい者と介助者1名は1,000円キャッシュバックしています。

 

▼スタレビのファンへの愛の深さについてさらに知りたい方はこちら!

 

スタレビおすすめの名曲

 

スターダスト・レビューの代表曲と言えば「木蘭の涙(もくれんの涙)」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、スタレビにはこの「木蘭の涙」以外にも隠れた名曲、おすすめの曲があります。

 

▼ファン歴24年が厳選!おすすめの曲8選

曲名 収録アルバム
トワイライト・アヴェニュー TO YOU -夢伝説-
Best Wishes
と・つ・ぜ・んFall In Love THANK YOU
Syncopation Love Goodtimes&Badtimes
HELP ME
KEEP ON ROLLIN’
約束 B.O.N.D.
春キャベツ 太陽のめぐみ
道 ~The Song For Us~ SHOUT

 

『トワイライト・アヴェニュー』は1983年にリリースされたスタレビ初期のヒット曲。スタレビファンのしあ氏はこの曲の魅力について以下のように語ります。

「女性目線で「友達から恋人へと発展できない恋のせつなさ、悲しみ」が歌われているのですが、要さんの優しいボーカルがとてもよく合っていて切なくなります。」

「この曲はアカペラバージョン(楽器無しで歌のみ)で歌われることも多く、それもとっても素晴らしいのですが、バンドバージョンのほうが曲の良さをより実感できると思います。」

▼トワイライト・アベニューのバンドバージョン

 

また『と・つ・ぜ・んFALL IN LOVE』は、スタレビのライブでは外せない、欠かせない大人気曲。

「1、2 He we go Jump!!!!! 」

のボーカルの根本要さんの掛け声とともに、みんなでジャンプするのが最高に楽しい曲。

 

 

▼おすすめの名曲8選、全ての曲の詳しい魅力の紹介はこちら!

 

以上、スターダスト・レビュー(スタレビ)の紹介でした。『スターダスト・レビュー入門』では、スターダスト・レビューのことをさらに深く知ることができます。

▼『スターダスト・レビュー入門』(全14ページ)

 

スターダスト・レビュー入門の目次著者

著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP、K-POP、洋楽、演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。お問い合わせはこちらから

ギタリスト佐橋佳幸とは

Webon紹介目次著者

山下達郎さんは『クリスマス・イブ』で有名なミュージシャン。達郎さんはテレビに出演しないため、動く姿を観れるのはライブだけ。チケットは入手困難であり「音の職人」と称される達郎さんのライブは「極上の音楽空間」。

『山下達郎』入門 ~極上の音楽空間~(全14ページ)はこちらから!

著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP、K-POP、洋楽、演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

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『山下達郎入門』目次へ  (全14ページ)

 

前ページでは山下達郎さんのバンドメンバーについてご紹介しました。

このページではギタリスト佐橋佳幸さんについてより詳しくご紹介いたします。

達郎さんのライブは佐橋佳幸さんのギターを間近を聴ける機会でもあります。私は佐橋さんを大大大好きで、歌を歌わないギタリストの中で日本一のギタリストだと思っています。

ぜひ、佐橋さんの魅力を知りより山下達郎さんのライブを楽しんでいただきたいです。

また佐橋さんとスターダスト・レビューの要さんが組んだユニット「本日のおすすめ」を知れば佐橋さんのことをより深く知ることができるでしょう。

▼スターダスト・レビューについては別Webonで詳しく解説!

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山下達郎のライブ参加ミュージシャンの魅力

Webon紹介目次著者

山下達郎さんは『クリスマス・イブ』で有名なミュージシャン。達郎さんはテレビに出演しないため、動く姿を観れるのはライブだけ。チケットは入手困難であり「音の職人」と称される達郎さんのライブは「極上の音楽空間」。

『山下達郎』入門 ~極上の音楽空間~(全14ページ)はこちらから!

著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP、K-POP、洋楽、演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

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『山下達郎入門』目次へ  (全14ページ)

 

山下達郎さんのライブの魅力、達郎さんの歌はもちろんのこと、豪華なメンバーによる演奏も楽しみの一つです。

達郎さんのライブは1曲の間奏なども長く、ミュージシャンのプレイがたっぷり楽しめるのもとっても嬉しいところです。

私は達郎さんのライブを「極上の音楽空間」と思っています。

おそらくミュージシャンのプレイを聴けば「極上の音楽空間」の意味が分かると思います。ライブは「今この場所で達郎さんの歌やメンバーの出す音に酔いしれている」といった感じを体験する事ができます。

山下達郎さんを支えるミュージシャンの魅力を知ることで、さらにライブを楽しめることでしょう。

 

現在の山下達郎バンド

難波弘之(ピアノ)

名前 難波 弘之(なんば ひろゆき)
生年月日 1953年9月9日
出身地 東京都豊島区巣鴨
備考 音楽家・SF作家。東京都音楽大学の教授を務めている。多くのアニメ・ドラマの音楽を担当する。山下達郎のコンサートツアーにも参加している。

▼難波弘之 SF短編集『飛行船の上のシンセサイザー弾き』(画像クリックで商品詳細へ)

 

難波弘之さんは1979年から達郎さんのライブ、レコーディングに参加する名キーボーディスト。

達郎さん以外にもさまざまなアーティストのサポートをしており、音楽ファンで彼の名を知らない人はいないのではないかと思われる程の存在。

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