角松敏生の歴史② 90年代・凍結

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角松敏生氏をご存知ですか?洗練されたサウンドを今もなお創り続けるシンガーソングライターです。高校一年生から角松氏を追いかける著者が角松敏生氏の魅力に迫ります!

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著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP K-POP 洋楽 演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

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このページでは角松敏生氏の90年代、凍結までの活動を解説します。この時期は2枚のインストアルバムと、内省的な歌詞のアルバムを3枚リリースします。そして、凍結に至るまでの流れを解説します。

 

 

▼このページで解説する時代

 

角松敏生の歴史 90年代・凍結

 

年表

年月 出来事
1985年5月 アルバム「GOLD DIGGER」
1987年7月 インスト「SEA IS A LADY」
1988年2月 中山美穂「You’re My Only Shinin’ Star」
1989年9月 8作目アルバム(内省的歌詞)
1990年7月 インスト「Legacy of You」
1991年7月 9作目アルバム(内省的歌詞)
1992年7月 10作目アルバム(内省的歌詞)
1993年1月 活動凍結

 

【1987年~1990年】2枚のインストアルバム

 

1987年にリリースしたインストゥルメンタル(インスト)アルバム「SEA IS A LADY」が好評で、2枚目のインストアルバム「LEGACY OF YOU」を1990年にリリースします。

 

▼「SEA IS A LADY」1987年7月リリース(画像クリックで商品詳細へ)

▼「Legacy of You」1990年7月リリース(画像クリックで商品詳細へ)

 

角松さんの歌詞の特徴として「ほとんどのものがノンフィクション」と言われています。

「自分の思ったことしか書けない、身を削って創る」

と言う角松さん。

彼の性格として、自分に正直にしか生きられない、嘘がつけない、というものがあると思うのです。

歌詞を読むと、その時の角松さんの心情が見て取れるよう。

なので、歌詞の多くに出てくる女性は、誰かしらをイメージして創られていると思います。

 

この2枚のインストアルバムの曲のタイトルには、サブタイトルとして女性の名前がつけられています。

歌詞で表現する代わりに、名前を付けることで気持ちを込めているのでしょうか。

 

▼「SEA IS A LADY」タイトル一覧(太字は編集により)

1 WAY TO THE SHORE“ERI”
2 SEA LINE“RIE”
3 NIGHT SIGHT OF PORT ISLAND“MIDORI”(NIGHT FLIGHT OF DC-10)
4 SEA SONG“NAOMI”
5 SUNSET OF MICRO BEACH“SATOKO”
6 OSHI-TAO-SHITAI“KAORI ASO”(MEMORIES OF DUSSELDORF)
7 52ND STREET“AKIKO”
8 THE BASS BATTLE“CHAKO”
9 MID SUMMER DRIVIN“REIKO”
10 LOVIN’ YOU“SAWAKO”
11 SEA SONG (REPRISE)
12 JUNE BRIDE (Instrumental) ※LP未収録

 

▼「Legacy of You」タイトル一覧

1 Premonition of Summer (KIYOMI)|Suma (MIDORI)
2 飛翔 (SAYURI)
3 At Canal St Club (MISAKO)
4 流氷 (YURIKO)
5 Mystical Night Love (CHISATO’S Dream)
6 Tsugaru (KEIKO)
7 Stress by ストレス (CHISATO M.)
8 Twilight River (YUKARI)
9 Daylight of Alamoana (YUKO)
10 NH-CA’s Struttin (Crossing at Airport) (SANAE)
11 Parasail (at Ramada Beach) (REIKO)
12 SATO

 

【1990年代】内生的な歌詞のアルバム3作

 

2018年現在、角松さんは2008年に再婚し、女の子が一人います。

 

実は、角松さんは1987年ごろに一度結婚しています。

そして奥様とは別にもう一人の愛する女性がいました。

この事については、当時のファンクラブの会報に角松さんからのメッセージが載っていました。

過去のことであり、今現在、家庭を持ち幸せそうな角松さんなので詳しくは触れませんが、この女性との事が1980年代後半から凍結までの角松さんの音楽の多くを占め、とても内省的な歌詞になってきています。

 

【内生的な歌詞の時期の3アルバム】

▼8作目アルバム「REASONS FOR THOUSAND LOVERS」1989年9月(画像クリックで商品詳細へ)

▼9作目アルバム「ALL IS VANITY」(9作目)1991年7月(画像クリックで商品詳細へ)

▼10作目アルバム「あるがままに」1992年7月(画像クリックで商品詳細へ)


1992年リリースの活動凍結前の最後のアルバム「あるがままに」は、とても個人的なアルバムと位置付けられており、ある一人の女性に捧げるものとなっています。

ブックレットの最後にはこう記されています。

「if my music cannot change your mind, Music does no longer make sense to me.(私の音楽があなたの心を変えることができないならば、私にとって音楽はもはや意味をなさない)」

角松さんは愛する女性から、「あなたの音楽は私にとって何の意味もなかった」と言われたそう。

 

「一人の女性のために創られた」ということなのでアルバムの歌詞も、ブックレットの言葉からも切々と想いが感じられます。

私は、このアルバムを聴いてこれほどまでに自分の身を削って音楽を創るのか・・・というとても心が震えました。

 

私は、このアルバムの中の「あるがままに」という曲が大好きで、部屋にこの歌詞をずっと飾っていました。

 

 

【1993年】無期限活動休止 ~凍結~

 

1993年1月27日、日本武道館でのライブを最後に活動を凍結、無期限の活動休止とします。

「凍結」という表現になったのは、活動休止でもなく引退でもなくいつまで休止か本人もわからないことが理由だと思います。

 

二人の女性との別離、中でも奥様ではなかった女性との別離が、とても角松さんの心に影を落とした事が原因の一つであるということを角松さんの作品から見て取れました。

ですが、音楽業界への絶望や自身の活動、パフォーマンスの行き詰まりなども理由にあげており、いくつかの要因が重なって「凍結」となったようです。

 

このファイナルライブはビデオ化され、私も購入して見ました。

ファイナルライブというとても悲しく寂しいことを除けば、角松さんのライブパフォーマンスはとても素晴らしくカッコいいものでした。

ファンの多くは、これが最後ということで集まっており、それぞれの中の角松さんとの想い出に涙を流す人の姿も・・・。

 

▼FINAL CONCERT TOUR Vol.1 [VHS](画像クリックで商品詳細へ)

 

ライブ終盤、角松さんのMCの最中、男性ファンが

「ガタガタ言ってねえで続けりゃあいいんだよ!」

と声を飛ばしました。

角松さんは、怒って目の前のスピーカーを蹴っ飛ばします。

「今、こう言った人は何かを辞めたことがない人だと思います。」と。

 

ファイナルライブなのにファンと喧嘩・・・。

その男性もよっぽど角松さんの凍結が悲しかったのだと思います。

角松さんも

「こんな風にいきなり辞めるということは、ファンのことを考えていないとさんざん言われた」

と語っています。

 

辞めたくて、辞めるのではなく、続けられなかった・・・という状態だったのでしょうか。

それでも、「最後ぐらいみんなでキチっと一つにまとまろうよ。ねっ」と笑顔でファンへ語りかけます。

 

男性ファンが(同じ人物か不明)「やりたくなったらまたやればいいよ」と。

「ま、そういうこったな」と角松さん。

 

角松さんもファンも涙、涙で、ファイナルライブの幕は下りたのでした。

 

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著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP K-POP 洋楽 演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

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角松敏生の歴史④ 解凍から現在

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角松敏生氏をご存知ですか?洗練されたサウンドを今もなお創り続けるシンガーソングライターです。高校一年生から角松氏を追いかける著者が角松敏生氏の魅力に迫ります!

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著者:しあ

40代後半女性。音楽が大好きでJ-POP K-POP 洋楽 演歌歌謡曲とさまざまな音楽を聴いています。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。全部チケットの半券をとっているのでとても大切な想い出です。音楽はとても生活を豊かにしてくれるもの。私の好きなアーティストの魅力を知っていただければ、と思います。

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1998年5月に活動休止からの再開を果たした角松敏生氏は、そこから数多くのアルバムをリリースしています。
それぞれに違うコンセプトがあり、ファンの方の間でも賛否両論を巻き起こすものがあったり、音楽に対する挑戦の姿勢が伺えます。このページでは凍結後の角松敏生氏の音楽の変遷を解説します。

 

▼このページで解説する時代

 

角松敏生の歴史 解凍~現在

 

年表

年月 出来事、リリースしたアルバム
1998年5月 解凍
1998年7月 解凍後第一弾シングル「Realize」
1999年1月 解凍後初アルバム「TIME TUNNEL」
2000年1月 「The gentle sex」
2000年8月 「存在の証明」
2002年10月 「INCARNATIO」
2003年8月 「Summer 4 Rhythm」
2004年8月 「Fankacoustics」
2010年8月 「Citylights Dandy」
2014年3月 「THE MOMENT 」

 

【1998年5月】活動休止からの復活 ~解凍~

 

角松さんは、1998年5月18日、凍結した時と同じ場所、日本武道館で活動の解凍をしました。いつ活動が再開するかわからなかったため活動休止の際「凍結」と表現したそうで、活動再開は「解凍」という表現になっています。

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クラシックコンサートの楽しみ方④ 【コンサートホールの歴史】

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クラシックコンサートに興味があっても「敷居が高い」「拍手のタイミングとかわからない」などの不安から、行くことを躊躇している方も多いのではないでしょうか。そんな不安を払拭し、さらにはより楽しむ方法をお伝えします。

クラシックコンサート初心者入門こちらから!

著者:めーぷる

国立大学医学部生。プログラマーとライターの仕事も手掛ける。幼少期からピアノとヴァイオリンを習っており高3の夏頃まではプロのピアニストを目指していた。クラシック音楽、ジャズ、洋楽と幅広いジャンルの音楽に親しむ。お問い合わせはこちらから

 

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前のページの最後では「『コンサートホール』に注目すれば、よりコンサートが楽しめる」とお伝えしました。

このページでは「コンサートホール」の歴史をお伝えします。コンサートホールへの理解を深めれば、さらにクラシックコンサートの楽しみ方が広がることでしょう。

 

コンサートホールの誕生


photo by Jorge Franganillo
▲コンサートホールの例:ベルリン・フィルハーモニー

 

19世紀以前のヨーロッパではクラシック音楽というのはもともと王侯貴族が楽しむためのものでした。したがって、クラシック音楽は当時、一般市民にとってはあまり馴染みがない存在だったのです。

▼18世紀頃のヨーロッパの貴族

 

しかし、19世紀(1801年~1900年)を境にクラシック音楽というのは次第に「民衆もターゲットに含んだ娯楽」としての性格を見せ始めます。

そして、クラシック音楽がポピュラーになり始めたこの時代「一般市民でもお金さえ払えば、気軽に音楽を楽しむことのできる場所」として、コンサートホールが誕生するようになったのです。

クラシックが市民の間でも広まった理由
民衆の間でクラシック音楽がポピュラーになった要因は「産業革命」にあります。

蒸気機関の開発などの技術革新により、それまでの封建的な社会構造(簡単に言えば生まれによって貴賤が決まる極端な縦社会)が資本主義社会へと移行し、貴族に代わって市民が台頭するようになっていきました。

そして、それまではクラシック音楽は難解で市民には理解しずらいものでしたが「ホモフォニー」という、市民にもわかりやすく楽しめる表現形式が台頭してきたこと、この2点がクラシックがポピュラーになった理由と言えるでしょう。

 

19世紀に誕生したコンサートホールの例として下記のようなものがございます。

1880~1900年頃に誕生したコンサートホールの例

ベルリン・フィルハーモニー (1882)<ドイツ>
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス (1884)<ドイツ>
ウィーン楽友協会大ホール (1870)<オーストリア>
アムステルダムのコンセルトヘボウ (1888)<オランダ>
ボストンのシンフォニーホール (1900)<アメリカ>


 

アメリカのボストンにもホールが誕生していた事などからヨーロッパだけではなく、アメリカ大陸にもクラシック音楽の熱狂が伝わっていたということがわかります。

 

20世紀にはいるとコンサートホールにも少し変化が見られるようになります。具体的には聴衆が楽しむためだけではなく、コンサートを開く主催者も運営がしやすいような工夫が施されるようになったのです。

それまでのコンサートホールは、シューボックス型でした

シューボックス型は客席の場所によって音響的に良い悪いの差異が非常に大きいため、良い席というのは限られていました。そのため、空席が一定数できていたのです。

しかし、20世紀になるとヴィンヤード型という新しいタイプのコンサートホールが作られるようになり、音響的な問題が改善されました。

その結果、主催者側の収益アップにもつながったのです。

 

「シューボックス型」「ヴィンヤード型」
シューボックス型は直方体の形をしているホールで、ヴィンヤード型は席が段々畑のような形で配置されているホールとなっております。

▼シューボックス型の例(ウィーン楽友協会大ホール)


photo by Anna & Michal

▼ヴィンヤード型(ベルリン・フィルハーモニー)


photo by keriluamox Some rights reserved

 

サロンコンサート

 

ここまでコンサートホールが誕生するまでの歴史を見てきましたが、クラシック音楽の歴史をたどると、クラシック音楽のコンサートが開かれていたのは壮大なコンサートホールにおいてのみではないのです。

 


▲貴族の家にて、サロンでピアノを弾くショパン(当時19歳)の絵

 

ショパン(1810-1849)やリスト(1811-1886)が活躍していた時代というのはサロンコンサートというのも頻繁に開かれていました。

ショパン・リストが活躍していた時代
当時は、貴族が才能ある音楽家のパトロンになっていた時代。貴族たちは、音楽家たちを自分の家のサロンに招いて才能を競い合わせていたといいます。ちなみに、「ピアノの魔術師」と称されるリストに対して、ショパンは「ピアノの詩人」として両者が対比されていたことは有名な話。この話は『クラシック音楽初心者入門』のWebonで詳しく紹介。

 

サロンというのはもともとフランス語で「部屋」や「空間」を意味する言葉です。

この言葉の意味から分かるように、サロンコンサートというのはコンサートホールで開かれるような大規模なコンサートとは違います。

サロンコンサートはコンサートホールよりもはるかに狭い部屋で行われ、コンサートホールで得られるような特別な音響効果もありませんでした。

その分、サロンコンサートはコンサートホールよりも場所代が安く、よりチケット代を安く抑えることができました。そのため、一般民衆にとっても当時のクラシック音楽界のスターの演奏をお手頃に目近で聴くことのできる格好の場所だったのです。

 

そして、サロンコンサートで有名なクラシックの音楽家といえばショパン、リスト、パガニーニらが挙げられるでしょう。

▼フレデリック・ショパン

▼フランツ・リスト

▼ニコロ・パガニーニ

 

彼らは演奏家としての実力はもちろん、一種のビジネスセンスにも非常に長けていました。

そのビジネスセンスを生かし、チケットを安く抑える代わりに、より多くの聴衆を獲得することができたのです。

当然収益も相当なものでした。彼らはこのサロンコンサートを通してミュージシャンとしてのファン層を広げることに成功したのです。

最近になって、サロンコンサートの存在意義が見直され始めているようなので、クラシック音楽を楽しみたいという方はサロンコンサートも視野に入れてみるとよいのかもしれません。

 

コンサートホールの歴史の変遷一覧

年代 出来事
1830年頃 ショパン(当時19歳)が王侯貴族の家のサロンでピアノを弾く。▼その時の様子

1800年中頃 王侯貴族が楽しむための音楽だったクラシックが、一般市民にも広まる
1882年 ドイツにベルリン・フィルハーモニー誕生(ドイツ)
1884年 ドイツにケヴァントハウス誕生
1900年 アメリカのボストンに「シンフォニーホール」誕生
1960年以降 ヴィンヤード型のコンサートホールがドイツ各地に作られる。

 

コンサートホールの歴史を知ると、コンサートホールもより楽しめるかと思います。

さて、この章ではクラシックコンサートの楽しみ方について解説してまいりましたが、次の第2章からはクラシックコンサートの種類についてお伝えします。種類を知ってお気に入りのコンサートを見つけてみてくださいませ。

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【邦楽ロックの歴史】を簡単にわかりやすく解説

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邦楽ロックが大好きな筆者が邦楽ロックの基礎知識やおすすめのバンドなどを解説!

邦楽ロック入門 ~近年注目のおすすめバンドを聴こう~はこちらから!

著者:寺井まさき

めまぐるしい人生を駆け抜けられたのは「邦楽ロック」に救われてから。その魅力を一人でも多くの人に伝えたい。あなたなりの感じ方で邦楽ロックを楽しみ、好きになってもらえたら嬉しいです!お問い合わせはこちらから

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この章(第1章)では4ページにわたって「邦楽ロックの基礎知識」についてお伝えしております。

このページでは邦楽ロックの歴史についてわかりやすくお伝えします。 時系列に沿って、要点をまとめてお伝えいたします。

 

邦楽ロックの歴史 

1970年代

 

世界的に有名なロックバンド「ビートルズ」は、1960年代から70年代初頭にかけて日本でも爆発的に人気が出ました。

 

ビートルズ(The Beatles)
1957年から活動し1960年代から70年代に世界的に活躍したイギリスの4人組ロックバンド。代表曲に「Let It Be」など多数。

▼ビートルズ

 

その人気と相まって日本でも「ロック(Rock)」という概念が市民権を得るようになりました。

 

しかし、この頃の日本は演歌や歌謡曲が音楽の中心で「ロックといえば、ビートルズを代表する海外のもの」と認識されていました。

 

【編集部コラム】1970年代初頭に日本のロック界に影響を及ぼした「はっぴぃえんど」
1969年~1972年に活動した「はっぴぃえんど」というバンドは「日本語ロックの原点」と表現されることがあります。

ロックが海外のものと思われていた日本で、最初に日本語でロックを歌い始めたのが「はっぴぃえんど」だと言われています。

「はっぴぃえんど」はこの頃に活躍した「ティン・パン・アレー」と共に日本の音楽界に大きな影響を与えました。80年代にはこの系譜のアーティストが多数活躍しました。

▼はぴぃえんどの代表曲「風をあつめて」

▼ティン・パン・アレーの曲

ちなみに最近のアーティストでは「never young beach」が、はっぴぃえんどから影響を受けたとして話題となっています。

 

【編集部コラム】1970年代初期~中期「キャロル」の登場

1972年~1975年に活動した「キャロル」は現在のロックシーンに大きな影響を及ぼし、「伝説のバンド」と称されています。矢沢永吉、ジョニー大倉を擁する同バンドは「英語まじりの日本語の歌詞によるロック」によって大きなインパクトを与えて支持を獲得しました。1973年に発売された『ファンキー・モンキー・ベイビー』は当時のロックバンドとしては異例のヒットである30万枚を売り上げ、日本のロックの地位を確立しました。

 

1980年代

 

1980年代になると海外のロックバンドの影響を受け、日本でも様々なロックバンドが登場します。それらのバンドの特徴は

「海外バンドの単なる模倣ではなく、日本国内で変わらず愛されるサウンド(歌謡曲など)を取り入れている」

 というところにありました。

「海外のもの」としての認識されていた「ロック」が、日本独自の文化と融合しながら「日本のもの」として認識されるようになっていきました。1980年代は邦楽ロックにとって重要な時期であったといえます。

 

1980年代に活躍した邦楽ロックバンド

・RCサクセション

「RCサクセション」は1980年1月に発売した「雨上がりの夜空に」の発売記念コンサートで、渋谷のライブハウス「屋根裏」の観客動員数記録を塗り替えて話題になり、ブレイクに至りました。

同バンドは「King of Rock」と称され、現在の日本のライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を与えました。音楽のみならず個性的なファッションも若者に影響を与え、ボーカルの忌野がステージで言う「愛し合っているかい?」という言葉は流行語になりました。1980年代を席巻したバンドです。

・BOØWY(ボーイ)

 

1981年結成(1989年解散)。代表曲に「Marionette (マリオネット)」「B・BLUE(ビー・ブルー)」など。

スタイリッシュなファッションや逆立てたヘアースタイルなど個性的なビジュアルが支持を獲得しました。社会現象となる程の人気で、『BOØWY以前』『BOØWY以後』で日本のロックを分けて語られるほどのインパクトを残しました。

同バンドのボーカルの氷室京介の「音楽を辞めようと思った時にRCサクセションのライブを観て辞めるのを踏みとどまった」という有名な逸話があります。

 

・THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)

1985年結成のバンド。代表曲に「リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」など。パンクロック(1970年代半ばにアメリカで誕生した過激で攻撃的なロック)に乗せてストレートなメッセージ性のある歌詞を歌い、若者の絶大な支持を獲得しました。

1990年代の終盤から、1990年代の前半にかけてバンドブームが起きますが「THE BLUE HEARTS」「ユニコーン」「JUN SKY WALKER(S)」「THE BOOM」は「バンド四天王」と称されました。

 

▼その他80年代活躍したアーティスト

X JAPAN/PRINCESS PRINCESS/REBECCA/BUCK-TICK/ZIGGY/佐野元春/聖飢魔II/ユニコーン

 

1990年代

 

1990年代の後半から日本ではロックバンドブームが起きて、ヒットチャートに多くのロックバンドが名を連ねるようになりました。

同時に「ビジュアル系ブーム」や「メロコアブーム」など、邦楽ロックが様々なジャンルに細分化していったのもこの時期です。

 

ビジュアル系ブーム

ビジュアル系バンドとは「ファッションなどの視覚的表現で世界観を表現するバンド」のこと。

ビジュアル系の元祖と言えばX JAPAN(1989年に「X」でデビューし1992年に改名)。1989年にリリースされた「紅」は1989年日本有線大賞の最優秀新人賞受賞曲に選ばれました。髪型やファッションを真似る人が現れ社会現象となるほどのムーブメントを巻き起こしました。

その後、ビジュアル系バンドは数多くデビューし「SHAZNA」「MALICE MIZER」「La’cryma Christi」「FANATIC◇CRISIS」は「ヴィジュアル系四天王」と称されました。

メロコアブーム

「メロコア」はパンクロックという音楽のジャンルの一つ。日本のメロコアブームの火付け役は「Hi-STANDARD」というバンド。1993年にリリースのアルバム「MAKING THE ROAD」は、国内外合わせて100万枚の売上を突破しました。

▼Hi-STANDARDの代表曲『Stay Gold』

 

▼1990年代に活躍したアーティスト

B’z/Mr.Children/シャ乱Q/スピッツ/JUDY AND MARY/THE YELLOW MONKEY/エレファントカシマシ/ウルフルズ/GLAY/L’Arc〜en〜Ciel

 

2000年代以降

 

2000年代は「青春パンク」など時期ごとに流行があり、その影響を受けたバンドが若者を中心に流行を起こしているというのが現在までの主な流れです。

 

青春パンク
パンクロックで「青春」がテーマとなっているような歌のジャンル。175R・ロードオブメジャー・ガガガSP・GOING STEADY・銀杏BOYZなどが登場し、中高生を中心に流行した。

▼2002年にリリースされ90万枚を突破したロードオブメジャーの『大切なもの』

 

 

邦楽ロックとハロウィン

 

邦楽ロックの誕生は「ハロウィン」が日本で流行した過程と似ているように感じます。

 

昔はハロウィンというイベントは日本にはなく、海外の行事でした。ハロウィンは元々は宗教的な意味合いが強い、厳(おごそ)かな行事であったそうです。

そんな中、日本で代表的なアミューズメントパークの一つ東京ディズニーランドを筆頭に各地でハロウィンにまつわるイベントが開催され始めました。

驚くことに日本人はそれをすぐに受けいれました。しかしあくまでもそれは「海外のもの」として当時の日本人は受け入れていました。

それが時が経つにつ入れ、だんだんとハロウィンに関するイベントが開催される地域が拡大していき、近年のSNSブームも相まって、若い世代を中心にハロウィンは拡大していきました。

おかげで今では「ハロウィン」という名の下、各地でコスプレイベントが開催されたり、若者が原宿で騒ぐというものも今じゃ秋の風物詩になりつつあります。

 

『はじめは「海外のもの」という認識で日本にやってきたものが、何かをきっかけに人々に広まり、それがいつのまにか定着し、今では日本風に改良され人々に親しまれている。』

という点は、海外から伝わってきたロックが、邦楽ロックとして日本に広まった過程と似ていると思います。

 

海外から輸入されたものが、日本人に認知され、いつのまにか日本風に改良された文化として親しまれるようになったということは「邦楽ロック」の歴史を理解するポイントです。

ここでは、邦楽ロックの歴史について年代別で紹介したと共に、具体的な例を用いて噛み砕いて説明しました。

歴史を知らなくても、邦楽ロックを楽しむことができます。ただ歴史を知ればより邦楽ロックに対する理解も増し、より楽しいものになるのではないかと思います。

 

 

次のページでは邦楽ロックの国内外からの評価をご紹介します。どのような見方を邦楽ロックがされているかを知る事で、より邦楽ロックというものを知る事ができるでしょう。

『邦楽ロック入門』目次へ  (全12ページ)

 

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目次著者

ノワール文学とは③ 【ノワール文学の発展】

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ノワール文学(小説)を知っている方も知らない方も。「ノワール文学とは」から「おすすめノワール作品」までをご紹介。読めばノワール作品に興味が出る事間違い無し。

國谷正明氏による『ノワール文学(ノワール小説)入門』はこちらから

著者:國谷正明

北関東在住の1児のパパ。フリーランスのライターとして、ゲームのシナリオや小説の執筆、記事作成を中心に活動しています。趣味は作曲と爬虫類飼育。好きな作曲家はエリック・サティ。好きな映画監督は深作欣二。好きなアニメはスポンジボブ。好きな学問は民俗学。苦手な調味料はマヨネーズ。敬愛する作家はジム・トンプスン。いいにおいのする文章を書こうと日々苦心しています。お問い合わせはこちらから
facebook(國谷)

 

『ノワール文学入門』目次へ  (全16ページ)

 

 

ノワール文学の発展

 

前のページで解説したようにフランスでロマン・ノワールが隆盛をみせる裏で、ハードボイルド小説の本場アメリカは激しく揺れ動いていました。ノワール文学の発展をこのページで解説する上で少しベトナムの歴史を解説します。

ベトナムの歴史を知る事でノワール文学についての知識が深まりますので少々お付き合いいただければと思います。

 

ロマン・ノワールとは
フランスでの英米ハードボイルド小説の流入を機に書かれたフランスのミステリ小説。

 

ベトナムの歴史

 

長らくフランスの植民地であったベトナムは、第二次世界大戦の影響を受け1945年に革命家ホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟がインドシナ半島北部にベトナム民主共和国を樹立し、独立を宣言します。

 

革命家ホー・チ・ミン
「ベトナム建国の父」と呼ばれるベトナム独立に貢献した革命家。ベトナム民主共和国・初代国家主席。ベトナム最大都市「ホーチミン市」は革命家ホー・チ・ミンからちなんで付けられた。(ちなみにベトナムの首都は「ハノイ」)

▼ホー・チ・ミン

▼インドシナ半島

 

ベトナムの独立を容認したくないフランスは中国と協定を結び、完全独立を要求するベトナム民主共和国に対して、フランス連合の一員に留まるよう交渉を続けました。

しかし首を縦に振らないベトナムに痺れを切らしたフランスはインドシナ南部を制圧し、傀儡国家(かいらいこっか・名目上独立しているが事実上他の者に支配された国家)である「コーチシナ共和国」を樹立。

 

 

1946年、フランス・ベトナム両国は交戦状態に入ります(第一次インドシナ戦争と呼ばれています)。

 

▼コーチシナ共和国国旗

 

1953年、ラオス国境近くのディエンビエンフー盆地で展開した交戦でフランス軍が降伏。

 

▼ディエンビエンフー盆地

 

ジュネーヴ協定の成立とベトコン

 

翌年には関係国間で和平協定(ジュネーヴ協定)が成立し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が承認されます。それは同時に、南北ベトナムの分断を意味していました。

 

ジュネーヴ協定(1954)
第一次インドシナ戦争を終結させるためにスイスのジュネーヴで開かれた休戦協定。この協定ではベトナムの南北分断やベトナム軍・フランス軍の撤退、ベトナム南北統一のための選挙をすることなどの合意が成立した。

 

▼南北に分断されたベトナム

 

ソ連と中国の援助を受けていたベトナム民主共和国(北ベトナム)が独立したことにより、東南アジアで共産主義が台頭することを恐れた資本主義国家アメリカは、傀儡国家であるベトナム共和国(南ベトナム)を建国。

東南アジアにおける反共産主義の砦としました。

 

 

しかし、ジュネーヴ協定で決められた南北統一選挙の実施をベトナム共和国(南ベトナム)政府が拒否したことで事態は悪化します。

ジュネーヴ協定での取り決めが反故(ほご・無しになること)されたことに憤ったホー・チ・ミンは1960年、南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)を結成し、武力による南北の統一を図りました。

 

南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)
南ベトナムで1960年に結成された反アメリカ・反帝国主義を掲げた統一戦線。「統一戦線」とは別の軍が共同して戦う事。ベトコンとも呼ばれる。アメリカに操られているサイゴン政権からの南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一を活動目的とした。

▼ベトコンの旗

 

ベトナム和平協定へ

 

それに対して、1961年第35代アメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは対ベトナム政策の中で、ベトナム共和国(南ベトナム・傀儡国家)への支援を決定します。

 

▼ジョン・F・ケネディ

 

そして、1964年、ベトナム沖のトンキン湾において、北ベトナム海軍がアメリカ海軍の駆逐艦(軍艦の一種)を魚雷艇(魚雷を備えた軍船)で攻撃したことをきっかけに、アメリカは本格的な武力介入に乗り出します(これをトンキン湾事件と言います)。

 

▼トンキン湾

 

アメリカが武力介入した後も事態は好転せず、泥沼の戦いが続きます。

戦争が長引くにつれてアメリカ国民の間で反戦ムードが高まり、事態をあおるようにして、1968年アメリカ陸軍の小隊が無抵抗の村人504人を無差別に虐殺するという痛ましい事件が発生します(これをソンミ村虐殺事件と言います)。

事件が報道されると反戦ムードは一気に激化し、各地で大規模なデモが頻発します。

 

 

アメリカはその後も苦しい状況を戦い続けますが、1973年には和平協定(ベトナム和平協定)が成立し、アメリカ軍の撤退が決定します。

これはアメリカにとって事実上の敗戦を意味していました。

 

ベトナム和平協定(パリ和平協定)とは(1973)
パリで調停されたベトナム戦争終結の協定。ベトナム民主共和国(北ベトナム)・南ベトナム共和臨時革命政府(南べトナム解放民族戦線・ベトコン)・ベトナム共和国(南ベトナム)・アメリカ合衆国の四者によって調印された。しかしその後もベトナムの複雑に絡み合った対立構造は解決されず衝突は続いてしまった。

 

ネオ・ハードボイルドとベトナム戦争

 

長々と(と言ってもごく簡単にですが)ベトナム戦争の概要をご説明して参りましたが、これにはもちろん理由があります。

 

アメリカを祖国とするハードボイルド小説は、時代が下るにつれて大きな変貌を遂げました。

過酷な現実に直面しても感情に流されず、己の信念を貫くために命懸けで抗う強固な意志の持ち主であったハードボイルド小説の主人公が、過去のトラウマに苦しみアルコールや薬に溺れる、傷つきやすい神経の持ち主に取って代わられるようになったのです。

こうした流れは1970年代以降顕著になり、それら一連の作品は、日本におけるハードボイルド研究の大家である小鷹信光氏によって、ネオ・ハードボイルドと命名されました。

 

このような「ネオ・ハードボイルド」誕生の影には、ベトナム戦争が大きく影響しています。

ベトナム戦争は、アメリカが敗戦を喫した初の戦争であると同時に、多くの帰還兵を生みました。

帰還兵の中には後遺症を抱えている者も少なくなく、多くの国民が身体障害や精神的なトラウマに苦しむ帰還兵の現状を目の当たりにしています。また、国内で反戦ムードが高まっていたことから、帰還兵に非難の目が向けられることさえありました。

そういった環境がネオ・ハードボイルド小説の主人公の造型に大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

 

 

2つの超有名暗殺事件

 

その他にも、ベトナム戦争が行われている間に、アメリカ人の心に大きな影を落とした事件がありました。

 

1 ケネディ大統領暗殺事件

▲ジョン・F・ケネディ

 

ひとつは、ケネディ大統領暗殺事件です。

アメリカが本格的な武力介入に乗り出す前年にあたる1963年11月22日、テキサス州ダラス市内をパレード中のジョン・F・ケネディ大統領を凶弾が襲いました

リー・ハーヴェイ・オズワルドによる犯行とされていますが、当のオズワルドが事件の二日後に警察署内でマフィアと繋がりのあるジャック・ルビーという男に射殺されるなど、いまだ多くの謎が残っています。

 

▼暗殺犯とされているリー・ハーヴェイ・オズワルド

▼オズワルドを殺害したジャック・ルビー

 

2 キング牧師暗殺事件

▲マーティン・ルーサー・キング牧師

 

もうひとつが、キング牧師暗殺事件です。

ソンミ村虐殺事件が発生した同年の1968年4月4日、テネシー州メンフィス市内で遊説を終え、モーテルのバルコニーで打ち合わせ中だったマーティン・ルーサー・キングが凶弾に斃れ(たおれ)ました。

犯人はジェイムズ・アール・レイという名の男で、強盗や詐欺・窃盗といった犯罪の常習者でした。

 

▼キング牧師を殺害したジェイムズ・アール・レイ

 

当時高い支持率を誇っていたケネディ大統領と、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者であるキング牧師の死は、多くのアメリカ国民に大きな衝撃と深い悲しみをもたらしました。

 

アフリカ系アメリカ人公民権運動とは(1973)
1950年代から1960年代にかけて、アメリカ在住のアフリカ系アメリカ人が、黒人に対する公民権の適用を訴えた大衆運動。17世紀の奴隷制度に端を発する根強い人種差別が背景にある。

 

これらの出来事がミステリのみならず、さまざまな作品の題材となっていることからも、アメリカという国に与えた影響の大きさを窺い(うかがい)知ることができます。

 

また、ベトナム戦争がハードボイルド小説のノワール文学化を促したという点でも、ベトナム戦争の概要を知ることは、ノワール文学を理解する上でとても重要であるといえます。

 

ここまで第1章ではノワール小説が誕生した経緯や発展していった背景には戦争などの時代背景が絡んでいた事を解説してきました。次のページ、第1章の終わりに現在のノワール文学について解説をしていきます。

『ノワール文学入門』目次へ  (全16ページ)

 



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目次著者

著者:國谷正明

北関東在住の1児のパパ。フリーランスのライターとして、ゲームのシナリオや小説の執筆、記事作成を中心に活動しています。趣味は作曲と爬虫類飼育。好きな作曲家はエリック・サティ。好きな映画監督は深作欣二。好きなアニメはスポンジボブ。好きな学問は民俗学。苦手な調味料はマヨネーズ。敬愛する作家はジム・トンプスン。いいにおいのする文章を書こうと日々苦心しています。お問い合わせはこちらから
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