JAGATARAの軌跡② 【江戸アケミ精神疾患の発症】

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鶏やヘビを食いちぎるなどの過激なパフォーマンスで注目を浴びたJAGATARA。精神疾患を患いながらも奇跡の復帰を遂げた江戸アケミ。そして死まで。1980年代を駆け抜けた伝説のバンドの軌跡をお伝えします!

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著者 積 緋露雪

1964年生まれ。音楽雑誌「CDで~た」の執筆・編集・企画を担当。ライター歴20年以上。小説『審問官』シリーズ出版。

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前ページでは名盤「南蛮渡来」のリリースまでの活動を振り返ってまいりました。

このページではシングル「家族百景」リリースから、江戸アケミの精神疾患の発症の経緯などをお伝えします。

▼このページで紹介する出来事

年月 出来事
1983年5月 シングル「家族百景」
1983年 スタジオ制作
1983年11月頃~ 江戸アケミ精神疾患発症・JAGATARA活動休止
全体年表はこちら(クリックorタップで開く)
年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
1983年5月 シングル「家族百景」
1983年 スタジオ制作
1983年11月頃~ 江戸アケミ精神疾患発症・JAGATARA活動休止
1985年9月 「アースビート伝説85」江戸アケミ出演(復帰の第一歩)
1987年3月 アルバム「裸の王様」リリース
1987年12月 アルバム「ニセ予言者ども」
1988年4月 アルバム「それから」でメジャーデビュー
1989年12月 アルバム「ごくつぶし」(江戸アケミ生前最後のアルバム)
1990年1月 江戸アケミ死亡
1990年7月 アルバム「おあそび」

 

【1983年5月】「家族百景」リリース

 

デビュー・アルバム「南蛮渡来」は評判が評判を呼んで、自主制作した3000枚は完売しました。

1983年になり暗黒大陸じゃがたらはEP12インチ・シングル「家族百景」をリリースします。

▼シングル「家族百景」(画像クリックで商品詳細へ)

そして、江戸アケミは「南蛮渡来」完売で得られた収入約300万円で自前の録音スタジオ制作に着手します。スタジオ制作の目的は自前のレコード製作を考えている人に使ってもらうためでした。

江戸アケミはこの時もしかするとメジャー・デビューの芽すらないバンド連中との“連帯”を志向していたのかもしれません。

本当のところは分かりませんが、江戸アケミは自分のために録音スタジオの制作に着手したのではないことだけは確かです。”自分のためより、他人のため”に生きていたような人物が江戸アケミなのです。

それに加えて江戸アケミにはレゲエを生み出した国であるジャマイカに対する羨望があったようです。

江戸アケミはレゲエそのものに嫉妬するほどにレゲエを愛していたと思われます。

「レゲエ」はバラック(粗末な家屋)みたいなスタジオで制作されているにもかかわらず、“世界的な音楽”になりました。一方、日本はというと、やれ機材がどうしたなど体裁ばかりにこだわっていてレゲエの足下にも及ばない、という忸怩たる思いが江戸アケミの胸の内にあったのは想像に難くありません。

 

スタジオ制作に取りかかる

 

江戸アケミは1983年、東京都渋谷区・松見坂にあったとあるビルの屋上で自前の録音スタジオ制作に取りかかります。

江戸アケミ自身が工事を行うという本当の手作りのスタジオだったのです。

ただし、機材は当時としては最新式でかなりのものが揃っていました。

完成するとそのスタジオは「じゃがたらスタジオ」と命名されました。

通称“じゃがスタ”と呼ばれたそのスタジオは“とがった音”ではなく“暖かい音”でレコード製作ができるスタジオとして次第に知られてゆきます。

江戸アケミは生真面目だった一方で色々な人から慕われる“親分肌”なところがあって、“じゃがスタ”には江戸アケミを慕った人たちが集まる場所になっていきました。

そうなると普通であれば“族”と呼ばれる集団へとなるがお決まりのコースだったのですが、“じゃがスタ”に集った人たちは最後までほんわかとした集まりだったそうです。

 

【1983年11月頃】江戸アケミ精神疾患の発症

 

1983年といえば、江戸アケミが突然に精神疾患を発症した年でもあります。

江戸アケミが発症した精神疾患は現在の統合失調症といわれています。

 

それは突然やってきました。

JAGATARAがそのとき関西から北陸へのツアーへ出発した直後のことでした。

「南蛮渡来」の成功やラジオ出演で全国のライヴ・ハウスから声がかかっていたのは想像に難くありません。

メンバーの証言などから江戸アケミの様子に異変が現れ始めたのは1983年10月30日のことだったようです。

それでも神戸での11月1日、2日のライヴ・ハウスでのライヴは無事に終えたそうです。

 

しかし、問題は11月3日の京都の精華大学の学園祭でのライヴです。

その前段にJAGATARAのメンバーの京都の宿舎には多くのジャンキーが出入りしていたそうです。

それが、江戸アケミには悪い意味で衝撃だったようです。

色々な人の江戸アケミ像はというと、江戸アケミは何をおいてもまず、自分よりも先に相手のことを考えて行動する人だったそうです。

ジャンキーに出くわしてしまった江戸アケミは非があるのは相手ではなく自分にあると、はなから思い込んで、それでなくとも生真面目な江戸アケミはジャンキーの悪しき生態に当てられたのだと思われます。

多分、ジャンキーの生態が江戸アケミには理解不能で、それでもとことん考えないと気が済まない江戸アケミは、倒錯してしまったのかもしれません。

つまり、ジャンキーの生態が“普通”でおかしいのは江戸アケミ自身だと。

 

【コラム】江戸アケミとドラッグの関係性

江戸アケミはドラッグを全否定していました。しかし、実際にドラッグに溺れた人たちを目の当たりにして、それはもしかしたならば、江戸アケミは自分の音楽がそうさせてしまったのではないかと自虐的と思えるほど自省してしまっていたのです。そのときの江戸アケミの落ち込みようは大変ひどかったと想像されます。これは江戸アケミのルーツにクリスチャンということが関係していると言われています。“ジャンキーを救えなかったのは自分の罪”と江戸アケミは考えていたようです。

 

その宿舎を出て精華大学へ向かう車中、江戸アケミは「UFOが出るぞ」などと変なことを口走り始めます。

そして、ツアーの同行者の一人がある不気味な池を右手に通り過ぎたときに“自殺する人が多い池”という趣旨の言葉をつぶやきます。

精華大学に着くと、2台の車でJAGATARAのメンバーは移動していたのですが、1台が30分くらい遅れて精華大学に到着しました。

それに対して怒った江戸アケミは“5時間待っていたんだぞ”という風に怒鳴り散らし、それを見たメンバーは呆気にとられたといいます。

 

いよいよ精華大学でのライヴが始まります。

集まった学生たちは踊り出したそうです。

そのせいなのか、江戸アケミはライヴ途中、突然歌うのをやめてしまいます。

そのときの様子は、もう江戸アケミは完全に“イっちゃっていて”、目は虚ろで、ただ首を左右にゆっくりと振っていたそうです。

 

ライヴはそこで中止になりメンバーたちは楽屋に戻ったのですが、江戸アケミは、放心状態で“じゃがたらをやめる”と言い残し、楽屋を去ったとのこと。

メンバーの多くがこのとき江戸アケミは発病していたと振り返っています。

 

この後、江戸アケミは都内の病院に入院し、その後、退院し、故郷の高知県に帰郷して療養します。

JAGATARAの活動は休止に追い込まれます。

江戸アケミは故郷にいて四万十川をぼうっと眺めているのを日課にしていたそうです。

江戸アケミは退院したからといって精神疾患が根治したわけではありませんでした。

大量の薬を毎日飲んでいたといわれています。

残されたメンバーは、それでも江戸アケミが復帰するときを辛抱強く待っていました。

 

さて、このページでは江戸アケミの精神疾患が発症するまでの軌跡について振り返ってまいりました。次のページでは、江戸アケミが復帰に至った経緯などについてお伝えします。

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JAGATARAの軌跡① 【ヘビを食いちぎる過激パフォーマンス!伝説のアルバム「南蛮渡来」】

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鶏やヘビを食いちぎるなどの過激なパフォーマンスで注目を浴びたJAGATARA。精神疾患を患いながらも奇跡の復帰を遂げた江戸アケミ。そして死まで。1980年代を駆け抜けた伝説のバンドの軌跡をお伝えします!

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1964年生まれ。音楽雑誌「CDで~た」の執筆・編集・企画を担当。ライター歴20年以上。小説『審問官』シリーズ出版。

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今は亡き江戸アケミが率いたJAGATARAを知っている人は熱狂的なJAGATARAのファンだと思います。

JAGATARAはこれからというときに江戸アケミが亡くなってしまいました。「伝説」と化して歴史に固定化されることを嫌っていた江戸アケミ自身にとっては不本意かもしれませんが、今やJAGATARAというバンドは「伝説」と化しています。

このページでは最初のギグから名盤の誉れ高い伝説のデビュー・アルバム「南蛮渡来」発表までの軌跡をお伝えします。

▼このページで紹介する出来事

年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
全体年表はこちら(クリックorタップで開く)
年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
1983年5月 シングル「家族百景」
1983年 スタジオ制作
1983年11月頃~ 江戸アケミ精神疾患発症・JAGATARA活動休止
1985年9月 「アースビート伝説85」江戸アケミ出演(復帰の第一歩)
1987年3月 アルバム「裸の王様」リリース
1987年12月 アルバム「ニセ予言者ども」
1988年4月 アルバム「それから」でメジャーデビュー
1989年12月 アルバム「ごくつぶし」(江戸アケミ生前最後のアルバム)
1990年1月 江戸アケミ死亡
1990年7月 アルバム「おあそび」

 

【1979年】最初のギグ

 

JAGATARAというバンドが活動を開始したのは1979年のことでした。

JAGATARAのファースト・ギグといわれているのが1979年3月8日、東京都世田谷区上馬にあったライヴ・ハウス「ガソリンアレイ」での“江戸&じゃがたら”とのバンド名で“猫だまし演芸一座ジョイントコンサート”と銘打って行われたギクです。

当時のJAGATARAは音楽性に脂がのっていた頃のJAGATARAのアフロビート(ジャズやファンクの要素を下地としたアフリカ音楽)とファンク・ビートがはね暴れるものとはかなり違っていてロックンロール色が強いものだったようです。

メンバーもJAGATARAの音楽の核となるメンバーであるOTO(村田尚紀・ギター)などはまだ参加していませんでした。

一方で江戸アケミはアメリカ南部のブルージーなロックがしたくて、メンバー募集の告知をしていました。江戸アケミの根本にはブルースがあったのです。

 

【1980年】江戸アケミが過激なライヴ・パフォーマンスへ走る

 

JAGATARAの原型ができた1980年。

江戸アケミは当時、全盛だったパンク・ロック(1970年代半ばにアメリカで誕生した過激で攻撃的なロック)を標榜していました。

しかし、生真面目で大変な照れ屋だった江戸アケミはライヴでのMCが大の苦手。それでもMCをするのですが、その際いわゆる“親父ギャグ”を飛ばします。

しかし、それがあまりにもくだらなくて客からヤジが飛びます。

あるときそれに窮した江戸アケミは何を思ったかマイクに頭をゴツンとぶつけたのです。

それが観客にウケてしまったのが運の尽きだったのです。

この自虐的なパフォーマンスはエスカレートせざるを得ないのです。

それというのも、観客は前と同じパフォーマンスでは満足しないものです。

江戸アケミは生真面目で照れ屋であった反動で異常なまでにサービス精神があったために、観客がはやし立てれば、それに応じてより過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。

初めはマイクにゴツンと頭をぶつけていたものが、激しくマイクに頭をぶつけるようになり、それを観客が喜んだのです。

観客が喜べば、江戸アケミは何でもしてしまうのです。

 

さらに過激になるライヴ・パフォーマンス

 

観客は江戸アケミの自虐的なパフォーマンス見たさに大勢やってきていました。

江戸アケミのライヴ・パフォーマンスにより、ライヴ・ハウスはいつも観客でいっぱいだったそうです。

江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは観客の求めを満足させるために更に更に過激さを増していきました。

鶏やシマヘビを食いちぎりそれを食らって、そして自らをフォークやカミソリで切りつけ、時には出血多量で救急車で病院に運ばれるまで、自虐的な江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは過激になっていきました。

また、ときには他のバンドのライヴに殴り込んでは血だらけでぶっ倒れたり、全裸になったりもしていました。

観客には“江戸アケミ信者”のような人たちが現れ、怖いもの見たさでライヴ・ハウスは大盛況だったと言われています。

 

初めは江戸アケミ本人がやりたくてやっていたパフォーマンスでしたが、江戸アケミは次第にそんなパフォーマンスに嫌気がさしてきて、本心ではやりたくなくなっていたのです。

しかし、観客がはやし立てるから過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。

江戸アケミは当時、負の連鎖の中にいました。

1980年8月、負の連鎖を断ち切ろうと江戸アケミは過激なパフォーマンスはもう金輪際やめて、音楽で勝負する決意をします。

そして時を同じくしてJAGATARAの音楽の核となるOTOが加入します。

この後、JAGATARAは“暗黒大陸じゃがたら”と名乗り、ツアーを敢行し、全国のライヴ・ハウスを巡ります。

 

【1982年5月】「南蛮渡来」リリース

 

まだ、インディーズという言葉もほとんど知られていない時代の1982年、JAGATARAは暗黒大陸じゃがたら名義でファースト・アルバム「南蛮渡来」をリリースします。

▼アルバム「南蛮渡来」(画像クリックで商品詳細へ)

このアルバムは少なからず、業界関係者だけでなく一般のJAGATARAのファンに衝撃を与えるものだったのです。

例えば音楽雑誌『ロッキング・オン』の編集者兼代表取締役でラジオのパーソナリティとしても知られている渋谷陽一氏に高く評価されました。

渋谷陽一氏のラジオ番組に出演したり、音楽評論家中村とうよう氏にも高く評価されたりと「南蛮渡来」は発表当時、日本を代表する音楽評論家に高く評価されたのです。

 

南蛮渡来はどんなアルバム?

 

「南蛮渡来」は“日本人てくらいね、性格がくらいね”という言葉とサックスが強烈な印象の「でも・デモ・DEMO」のファンク・ナンバーで始まります。

この中で、親しい人やどうでもいい人に対して別れを言って“せこく生きてちょうだい”と突き放す江戸アケミ。

これは思うに過去の自分自身に対しての惜別の言葉にもとれます。

更にいえば江戸アケミが書く歌詞はどれもが江戸アケミの遺言のように思えて仕方がないのです。実際に曲を聴けば、それが伝わってくることでしょう。

 

ノイジーなパンク・ナンバーの「季節のおわり」では“何かがちがう”社会への反抗が歌い上げられ、「BABY」ではパンキッシュなファンク・ビートに乗せて、江戸アケミの思いの丈をがなるように歌われています。

 

そして大槻ケンジらにカヴァーされ愛されている名曲「タンゴ」

“都会の隅で”生きてゆく生きづらさをアフロビートによるアレンジのレゲエ・ナンバーとしてその不合理を切々と江戸アケミが歌い上げています。

 

社会に対する敵愾心むき出しのパンク・ナンバーの「アジテーション」は、他者との関係の破綻から見えてくる社会の嘘くささに対する“アジテーション”です。

パンク・ナンバーの「ヴァギナ・FUCK」では卑猥な言葉で聴くものをアジテーションしています。

パンキッシュなレゲエ・ナンバーの「FADE OUT」も“息苦しくてかなわない”日常に対する反抗の歌で、そんな終わらない日常から逃れられないことに嫌気がさして仕方がない様が言葉を吐き出すように歌われています。

 

終曲は一転してこれまた名曲「クニナマシュ」です。

“人類ミナ兄弟”とアフロビートに江戸アケミは心底乗ることに集中しています。

そして「クニナマシュ」では女声がうまく使われています。

「クニナマシュ」は次第にカオス状態になっていって有名な“ぼくたちは光の中でチャチャチャ”というフレーズを女声が歌い、その中を江戸アケミが息苦しそうに“あいつの躰に 火をつけろ”とあまりに残酷な“祭り”を煽って終わりを迎えます。

なお、1989年にCDが再々発売された際にボーナストラックとして「元祖家族百景」「ウォークマンのテーマ」が収録されました。

 

さて、ここまでは名盤「南蛮渡来」のリリースまでの活動を振り返ってまいりましたが、次のページではシングル「家族百景」リリースから、江戸アケミの精神疾患の発症の経緯などをお伝えします。

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著者 積 緋露雪

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スターダスト・レビュー「還暦少年ツアー」の見どころ徹底解説!ファン歴24年が語る!

 

スターダスト・レビューは2019年末まで続く「還暦少年ツアー」の真っ最中で、全81公演を予定しています。

「還暦少年ツアー」の見どころをご紹介します。

 

ネタバレを含みますので、知りたくない方はネタバレ部分は赤文字で明示いたしましたので見ないようにお願いします。

ちなみにボーカル&ギターの根本要さんは「ネタバレしてくれて全然かまわないよ」という人です。ネタバレしても、生のライブが勝ると思っているからです。

でも、ネタバレOKの人、ネタバレが嫌だという人がいることはもちろん理解しているので「ネット上では配慮をお願いしますね。」と言っています。

※ちなみに様々なミュージシャンのライブに数百回以上行っている筆者は、スタレビのライブが日本一だと公言しています。その理由を知りたい方は以下のコンテンツより!

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「還暦少年ツアー」7つの見どころ

① セットがかわいい

 

今回のツアーは「セットがかわいい」というのが話題の一つとなっています。

通常、スタレビはそんなに豪華なセットを組むわけではありません。

ですが、今回は客席に入った瞬間からワクワクするセットが組まれています。

ライブへの期待が高まること間違いなしです。

 

-ネタバレ-

 

今回のツアーのテーマは「スタレビ遊園地」。

題して「ユニバーサルスタレビジャパン」略して「USJ」。

ステージには大きな観覧車、ジェットコースターが組まれていて、とにかくかわいい。

見た瞬間に「うわ~っ!」っとなると思います。

観覧車の真ん中には「スタレビ」の文字。

スタレビはずっと照明に力を入れていて、曲に合わせてライトアップされるセットは本当に楽しく素晴らしい。

 

-ネタバレ終了-

 

② アルバム「還暦少年」の曲が素晴らしい

 

最新アルバム「還暦少年」のツアーなので「還暦少年」の曲をたっぷりとお届け。
CDとライブでは曲に対する感じ方が変わります。

やはり生で聴く音はライブならではの良さがあり、とてもカッコよかったり、心地よかったりと、とても楽しめるのです。

ぜひアルバム「還暦少年」を聴きこんで参加してほしいと思います。

 

-ネタバレ-

 

アルバム収録曲10曲中、9曲をライブでは演奏します。

これは、なかなか異例なこと。

スタレビの場合、アルバムのツアーでは収録曲が10曲あれば、ライブで演奏するのは大体6~7 曲ぐらいです。

今回は9曲も演奏するのでたっぷりと楽しめるのです。

「世界はいつも夜明け前」の要さんのギターがカッコいい。

 

-ネタバレ終了-

 

 

③ セットリストが日替わり / リクエストボタンの存在

 

スタレビのツアーでは、セットリスト(演奏曲目)が変わるのが魅力。

24曲ほどのセットリストのうち、約9曲は日替わり曲となっています。そしてその中の曲は ファンが決めることができます。

約9曲の日替わりの曲は候補曲の中から選ぶのですが、ライブ会場に設置された「リクエストボタン」に曲目が出ています。

その中から聴きたい曲の「リクエストボタン」を押して、今日のセットリストを決めましょう!

▼リクエストボタンのイメージイラスト

 

④ 「木蘭の涙」しか知らなくても大丈夫

 

スタレビの代表曲「木蘭の涙」。

これしか知らなくても大丈夫です。

きちんと要さんが説明してくれます。

 

-ネタバレ-

 

「オープニングからずいぶん時間がたったけど、知らない曲ばっかりだ…どうしよう…と思っているあなた!大丈夫です。『木蘭の涙』しか知らない、そんなあなたにお届けするスタレビの隠れた名曲シリーズ~!いやいや別に隠してないから。あえてヒット曲を出さないようにしてるだけだから。」と笑いをとる要さん。

曲を知らなくても楽しめるのがスタレビライブです。

もし気に入った曲があれば、ぜひ終演後にCDを購入してください。

 

-ネタバレ終了-

 

⑤ 健康に配慮!要さんが自身の病気をネタにする

 

昨年(2018年)要さんが、軽い軽い脳梗塞で大事をとって入院。

すぐに元気になったので一安心だったのですが、それ以来ネタが一つできたとばかりに自身の病気で笑いをとっていく姿には感心します(笑)

 

根本要さんの入院について詳しくは『スターダスト・レビュー入門』のこちらのページより!

 

ファンの年齢層も高くなっていく、ということもありライブでは15分ほど休憩時間があります。

トイレに行ったり、グッズを買ったりしていいのですが、メンバーはずっとステージにいます。

普通は休憩時間があれば、アーティストも舞台袖に引っ込みますが、スタレビはずっとトークをしています。

これがおもしろい。

ですから私は、ささ~っとトイレに行ってささ~っと戻ってきます。

ライブ中にトイレに行くことはない私ですが、スタレビライブは長いので(3時間半~4時間近く)「行っていいよ」と言われると行っておきたいのです。

 

-ネタバレ-

 

腿上げ運動や、エコノミー症候群に配慮して立ち上がって伸び~をしたり、デトックス効果と称して声出しがあったりと、健康にも配慮した内容で笑いをとる要さん。

「還暦少年」では、客席を年代別に分けたパフォーマンスで観客を盛り上げ、熱気は最高潮です。

 

-ネタバレ終了-

 

⑥ おみやげつき

 

スタレビのツアーでは大塚食品さんがスポンサーになってくださっていて、終演後にはクリスタルガイザー700mlを一人一本頂けます。

▼クリスタルガイザー

大塚食品さんがスポンサーになって、もう20年近く経つでしょうか。

カロリーメイトやSOYJOY、イオンウォーターなどいろいろと頂いてきました。

ここ数年は、クリスタルガイザーを頂いていて、ライブ遠征した時にホテルでお茶を飲むのに助かっています。

 

⑦ 募金をするとステッカーがもらえる

 

スタレビは、東日本大震災をきっかけに義援金活動を始めました。

その活動は一過性に過ぎず、今現在までずっと続けています。

みんなが募金をしやすいようにと、募金をするとステッカーが配られます。

スタレビの事務所社長の鬼木さん自ら、募金箱の前に立っています。

私は、信頼できるスタレビ以外には募金をしません。

ぜひ、ライブでは募金をしていただけたらと思います。

 

ファンクラブならではの3つの特典

 

以下ではファンクラブならではの特典を紹介します。

スタレビの楽しみ方の幅を広げたい方は、ぜひファンクラブにも入会いただければと思います。

ファンクラブ入会はこちら⇒スタレビ公式サイト(フラッパークラブページ)

 

① 記念スタンプ

 

今回の「還暦少年ツアー」から、記念スタンプが始まりました。

ファンクラブ会員は、チケットやその他押したいものに当日の日付入りのかわいい記念スタンプを押すことができます。

何かライブの記念になるものを、とメンバーたちが考えてくれたものです。

 

② 当日入会でサイン入り生写真

 

会場でファンクラブに入会すると、サイン入り生写真がもらえます。

もちろん、当日入会でも記念スタンプを押すことができます。

スタレビが好き!と思ったらぜひ入会を。

 

③ バックステージご招待

 

ファンクラブ会員は、抽選でライブ後にバックステージに招待して頂けます。

各会場4名です。

一度も当選していない人が優先ですが、現在2度目の応募も可能となっています。

私は9年前に当選し、今回ダメ元で2回目の応募をしたら当選しまして、とっても幸せな時間を過ごすことができました。

メンバーとの5ショット写真に自分の名前入りのサイン、その他サインしてほしいものを持って行くとそれにもサイン、握手やたっぷりとお話も出来て、いたれりつくせりなのです。

スタッフさんがコップでお水も出してくださり、クリスタルガイザーもまた楽屋で頂きました。

メンバーはとにかく優しくてきちんと話を聞いてくれ、いかにファンクラブ会員を大事に思ってくれているかがよくわかります。

要さんからの質問として「いつからスタレビを好きなのか」「今日のライブの感想」を聞かれますので心の準備を。

 

ファンクラブ入会はこちら⇒スタレビ公式サイト(フラッパークラブページ)

 

「還暦少年ツアー」に参加した感想!

 

とにかくすっごく楽しい! 元気をもらえる!

私は、いつも最新のスタレビが最高だと思っています。

最新アルバムが最高だし、最新ツアー、最新ライブが最高だと思っています。

今回も本当に最高で、スタレビが本当に大好き!と実感しました。

おそらくセットリストの中で、世間的に知られている曲は2~3曲…もしかしたらあの1曲だけかも知れません。

こんなにヒット曲がないのに、こんなに楽しくて盛り上がるライブ他にある?と思います。

これは、他のライブにも多く参加している私だから言えます。

スタレビのライブほど楽しいライブはない。

一緒に歌って踊って、笑って盛り上がって最後の曲は感動で胸がいっぱい。

還暦を迎えたスタレビメンバーが、こんなにも楽しく生きている。

ライブ後には「自分もこんな風に年を重ねたい、年をとることが怖くない」そんな風に思えるはず。

ぜひあなたも「スタレビの最高のバックダンサー&バックコーラス」として、スタレビライブに参加してください。

 

以上、しあ氏による「スターダスト・レビュー還暦少年ツアーの見どころを解説でした。スターダスト・レビューについて一から知りたい方は、当記事の筆者であるしあ氏による「スターダスト・レビュー入門」をご覧くださいませ。

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テイラーの音楽の変遷② 【ポップへの転身と批判】

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~はこちらから!

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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『Taylor Swift入門』目次へ  (全7ページ)

 

この章ではTaylorの音楽の変遷を通して、Taylorの魅力やTaylorから歌手の夢を目指すためのお手本としてどのようなことを私が学んだかをお伝えしたいと思います。

このページではTaylorの3枚目以降のアルバムのリリースの変遷と、ポップテイストが色濃くなるTaylorに対する批判と、それに対するTaylorの対応についてお伝えします。

 

Taylorの4枚目のアルバム「RED」

 

Taylorの4枚目となるアルバム「RED」は、いわゆるニューカントリーといえるでしょう。典型的なポップスタイルで構成されつつ、カントリーの古典的で感傷的なサウンドも入り混じっています。

▼4枚目アルバム「RED」Billboard 200において初登場1位(初週売上120.8万枚)全世界で2012年度年間2位(約520万枚)(画像クリックで商品詳細へ)

アルバム収録曲である「We Are Never Ever Getting Back Together」や「I Knew You Were Trouble」はポップテイストに仕上がっており、世界各国で爆発的にヒットしました。皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。

▼「We Are Never Ever Getting Back Together」Billboard Hot 100 最高1位

▼「I Knew You Were Trouble」Billboard Hot 100 最高2位

 

このアルバムに収録されている曲の多くは、カントリーのサウンドに帰着しつつ鮮やかにポップと融合されています。

そこにロックリフ(ロック調のメロディ)も加わり、アルバム「RED」はより一層ポップテイストな一作となりました。

 

5枚目のアルバム「1989」で完全なポップに


▲5枚目のアルバム「1989」2014年度年間2位(全世界),第58回グラミー賞「最優秀アルバム賞」受賞

 

アルバムを出すにつれてポップテイストが色濃くなってきたTaylorのミュージックジャンルは5枚目のアルバム「1989」を境に完全なポップスタイルの音楽へと変貌を遂げました。

4枚目のアルバムに対して「ポップとカントリーを両方追いかけていたら、両方とも見失ってしまった」とも語るTaylor。

愛してやまないカントリーミュージックに対し誠実であるためにも、自らの感性に従い正直な道を選んだといいます。そこで、レーベル側の意見や周りの反対に屈せず、完全なるポップミュージックでアルバムを出すと決めたそうです。 “テイラーの音楽の変遷② 【ポップへの転身と批判】” の続きを読む

テイラーの音楽の変遷① 【原点のカントリーミュージック】

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~はこちらから!

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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『Taylor Swift入門』目次へ  (全7ページ)

 

この章ではTaylorの音楽の変遷を通して、Taylorの魅力やTaylorから歌手の夢を目指すためのお手本としてどのようなことを私が学んだかをお伝えしたいと思います。

このページではTaylorの原点であるカントリーミュージックについてお伝えするとともに、Taylorの3枚目のアルバムをリリースするまでの音楽の変遷についてお伝えします。

 

Taylorの原点はカントリーミュージック

 

今やポップ界にも進出し絶大な人気を誇るTaylor(テイラー)の原点は「カントリーミュージック」です。

カントリー歌手としてデビューし、ウェスタンブーツとカーリーヘア、アコースティックギターというスタイルがTaylorのトレードマークでした。

▼「ウェスタンブーツ」「カーリーヘア」「アコースティックギター」スタイルのTaylor


photo by alexahalasan,(CC BY-SA 2.0)

 

昔からTaylorはカントリーミュージックが大好きでした。

流行している音楽ではなくカントリーミュージックを好み、よく歌っていたことがいじめの原因になっていたとも語っています。

そもそもカントリーミュージックとはどのようなジャンルのことを指すのでしょうか。まずここでは、Taylorを語る上で欠かせない「カントリーミュージック」について触れていきたいと思います。

 

カントリーミュージックとは

 

カントリーミュージックの発祥は1920年に遡ります。

元々は「カントリーアンドウエスタンミュージック」と呼ばれており、アメリカの田舎で生まれ主に白人の中で発展してきた音楽ジャンルです。

素朴で感傷的なメロディーが特徴だと思います。「田舎風」と称されることもあり、「日本でいうところの演歌的位置付け」とよく言われています。

楽器編成が特徴的であり、アコースティックギターやバンジョー、マンドリンなどを使用して演奏します。

▼バンジョーはこんな楽器

Arent ,CC 表示-継承 3.0, Link 

 

カントリーミュージックは1950年代から1960年代にかけて全盛期となりました。この頃の代表的なアーティストは、カントリーミュージックの巨匠とも言われるJohnny Cash(ジョニー・キャッシュ)や、ゴールデンレコード大賞を受賞したMarty Robbins(マーティ・ロビンズ)などです。 “テイラーの音楽の変遷① 【原点のカントリーミュージック】” の続きを読む

天月-あまつき-さんの人柄とは? 【好きなもの・友人・ファンの傾向など】

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超有名歌い手「天月-あまつき-」。「小さな恋のうた」の歌ってみた動画は6900万回の再生回数を越え、女子中高生で知らない人はいないと言われています。そんな天月-あまつき-の基礎知識からオリジナルキャラ「正宗くん」の魅力までファンが徹底解説!

『天月-あまつき-』入門 ~女子中高生は全員知っている!?超有名歌い手の魅力に迫る~はこちらから!

著者:Ayaka

ボカロ・歌い手が好き。特に天月さん、まふまふさんのファン。天月さんの2018~2019年冬ツアーは9公演中4公演参加。2019年6月リリースの天月さんの新曲CDは18枚予約。30代以上の世代にもボカロや歌い手の素晴らしさを伝えたいと思っている。

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『天月-あまつき-入門』目次へ  (全10ページ)

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著:Ayaka 価格480円
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前ページでは天月-あまつき-(以下、天月)さんの基本的な情報をお伝えしましたが、このページではより詳しく人柄に迫っていきたいと思います。

 

5つのキーワードで知る!天月さん

 

まずは5つのキーワードを通して天月さんがどのような方なのかをお伝えします。好きなものなどを知れば天月さんの人柄のイメージが掴めることでしょう。

 

① ゲーム

 

天月さんといえば「ゲーム」は外すことができないキーワードです。

天月さんの趣味はゲームでゲーム配信を行うことがあります。

特にFPS(シューティングゲームの一種)が好きで若者に人気の「PUBG」であったり「Apx Legends」のゲーム配信をすることが多いです。

ゲーム配信を行う歌い手は他にもいますが、天月さんはその中でも特にゲームが上手いです。

 

【筆者に聞いてみた】天月さんのゲーム配信の楽しみ方

Q.(Webon編集部)ゲーム配信はどこで見られますか?また天月さんのゲーム配信で好きなところはどこでしょうか?

A.(筆者 Ayaka)天月さんのゲーム配信は主に「OPENREC」というアプリで視聴することができます。「OPNEREC」はゲーム配信に非常に向いているツールで、歌い手さんがゲーム配信をする時は大体がこのツールで行われています。

天月さんのゲーム配信の好きなところは、他の歌い手のゲーム配信者より、ゲームが上手という部分です。「PUBG」という人気のゲームでは「ドン勝」というものを取る姿が見られます(PUBGは最後の1人に残るまで戦い合うというゲームで、最後の1人に残ることをドン勝といいます)。やはりゲームが上手な人のゲーム配信を観るのはとても楽しいです。そしてゲームが上手なのに、話し方がゆるい感じも好きです。全然ガツガツしておらず、まったりとさくさくとゲームをしつつ、話し方は可愛くゆるい感じが、天月さんの魅力の一つだと思います。

 

② コーラ

 

「コーラ」も天月さんを語る上で外せないキーワードです。

コーラが大好きな天月さん。

配信中に飲む飲み物も大体コーラです。

 

天月さんは歌い手のまふまふさんが主宰する「ひきフェス」というライブに出演しています。ひきフェスでは出演者がオリジナルのメニューをそれぞれ考案するのが恒例となっているのですが、天月さんはご自身が大好きな「コーラ」のメニューが多いです。

しかし2019年6月23日に開催されたひきフェスでは「いちごあまかるぴすつき」という天月さんのイメージカラーである赤色をイメージしたいちごにカルピスというメニューを考案されていました。天月さんといえばコーラのイメージがあったので新鮮でした。

▼2018年のひきフェスでのメニュー「続・天月のコーラMarkIⅡ2nd弐号機改」

 

最近の配信ではコーラを開けて「プシュッ。シュワシュワシュワ」というコップに注ぐような音がして、天月さんがごくごくと飲んで「やっぱコーラはうまい!」のような始まりが多いです。

配信では天月さんがコーラを飲むと「またコーラw」「可愛い」などのコメントをよく見かけます。

リスナーは天月さんのコーラ好きを温かく見守っているように感じます。

 

③ 猫好き

 

天月さんは猫も飼っています。猫好きとしても有名です。

マンションで一人暮らしをしているそうですが、猫は2019年6月現在5匹飼っています。「はな」「むぎ」「ふうた」「める」「るぅ」という5匹の猫を天月さんは可愛がっています。

Twitterは1日1~2回程度、18~20時の間に更新することが多い天月さん。

愛猫の画像をツイートすることも多く、猫のツイートが続くと「猫bot」になってしまうと懸念することもあります。

ちなみにTwitterのフォロワー数は2019年6月現在で126万人を突破しています。

 

④ いじめの経験

 

子供の頃から歌うことが好きだったという天月さん。

学生時代には、いじめに遭ったこともライブのMCなどで話されています。

東京のいじめられっ子だった天月さんがこうして大きな舞台に立つことができ「人生は何があるか分からない」という言葉を通じ、若者にエールを送っています。

 

⑤ 天体や星の曲

 

「天月」という名前の通り、天体や星をモチーフとした曲のレパートリーが多いのが特徴的です。

特にライブでも人気のある曲が「ホシアイ」です。イメージカラーは赤色で、ライブではリスナーのペンライトの色が赤一色となり、絶景を楽しむことができます。

 

 

歌い手の友人

 

歌い手の主な友人としては

After the Rainの「まふまふ」さん、「そらる」さん、

浦島坂田船の「うらたぬき」さん「となりの坂田。」さん。

シンガーソングライターの「佐香智久」さん

女性歌い手のパイオニア「96猫」さん

などが挙げられます。

天月さんは大手歌い手との絡みが多く、特にまふまふさん等とは実写動画をYouTubeに投稿してリスナーたちを楽しませています。

 

【筆者に聞いてみた】交友関係の楽しみ方

Q.(Webon編集部)Ayakaさんは天月さんの交友関係をどのように楽しんでいるのでしょうか?

A.(筆者 Ayaka)天月さんは特にまふまふさん、うらたぬきさん、となりの坂田。さんと仲がよく4人で実写動画を撮っています。その動画内で、天月さんは罰ゲームをすることがあります。Twitterでその動画が投稿され、動画を観終わったら天月さんの名前とアイコンが「エビアン(水)」であったり「大納言あずき(サーティーワンアイスクリーム)」に変わっていることがありました。これは「Twitterのアイコンと名前を24時間これに変える」という罰ゲームで、動画を見終わって天月さんのアイコンと名前が変わっていてすごく面白いなって思って楽しんでいました。

Twitterでは友人間でのリプもあるのですが、天月さんのリプはいつも気が利いていて、なかなか面白い人なのだなと思います。意外と毒舌な感じも人気があります。わざと友人に冷たいリプを送っていて(ネタでわざと冷たくしている)それがリスナーの間でも人気があります。特定の友人とTwitterで絡むということはなく、たまに楽しいリプ(ネタとか)を友人間で送りあっているという感じです。ただ個人的にはまふまふさんとの絡みがあると、ちょっと嬉しいなって思います(まふまふさんも好きなので)。

 

天月さんのファン

 

天月さんは歌い手の中では唯一、ファンクラブが存在します。

ファンクラブに入ると優先的にライブで前の方の席を確保できるので、そういった配慮なども有り難いです。顔写真の入っている会報も年に3回ほど送られてくるのも嬉しいです。

 

 

天月さんは大人や男性のファンも他の歌い手と比較すると多い方です。というのもやはり他の歌い手さんに比べてJ-POPのカバーをすることが多いので、広い層から受け入られやすいのだと思います。

子供が天月さんのファンで親も天月さんを聴くようになり、一緒に応援しているという親子のファンも天月さんは多くなっています。

 

なぜ天月さんにはリアコが多い?

 

また歌い手の中でも若いファンの中にはガチ恋、リアコ(本当に恋愛をしているという状態)の人も多いです。(ちなみに歌い手の中でもガチ恋のファンが多いことを「ファン層が厚い」と表現します。)

ガチ恋やリアコが多いのは、天月さんがイケメンだからだと思います。

もちろん他の歌い手さんもかっこいい方は多いのですが、天月さんの自撮りはいつもかっこよくて、見た目から好きになるという人も多いと思います。

また人柄もあると思います。優しい方ですし、まめな方なので、そういった部分から彼氏にしたいと思う女性は多いと思います。

歌声も人気の秘密です。天月さんの歌声は甘くて透明感があり、少年のようなハイトーンボイスで女性受けが抜群です。

まとめてみますと天月さんを好きになる女性ファンが多いのは、天月さんに以下のような魅力があるからだと思います。

  • 見た目は草食系のように柔和な雰囲気でイケメン
  • 優しそうな声でもちろん歌が上手
  • 話し方が可愛い
  • 気取っていない雰囲気
  • 友達も多くていつも楽しそうで明るい
  • ライブでステージに立つ姿はキラキラしていてかっこいい
  • テレビに出ることもある人気者

 

筆者が天月さんのファンになった理由

 

私が天月さんに惹かれたのは、Twitterに投稿されていた1枚の自撮りの画像が最初でした。イケメンで素敵で、こんなにかっこいい歌い手がいたのかと驚き、それから興味を持ち始めました。

Twitterで毎日更新されるツイートを見ていて、そのツイートの文面などが可愛い人だなって思いました。Twitterの内容も楽しくて、毎日を一生懸命に生きている明るい方なのだと思いました。

 

天月さんを知るうちに天月さんがいじめに遭っていたということも知りました。

私も中学生の頃に同じようにいじめに遭ったことがあり、それから人生観が変わったという経験もありました。天月さんもいじめがあってそれで人の痛みが分かる人となって、こんなにも優しい人になったのかな、と共感することが多くなりました。

天月さんの見た目や歌から入る人は多いと思います。友達に紹介されて歌を聴いて好きになるというきっかけが多いのかなと思います。

私は天月さんの素敵な見た目から入り、内面を知るうちに惹かれていき、最後に歌もいいなって思うようになりました。

今では天月さんの歌を毎日欠かさず聴く日々です。

 

以上、天月さんの紹介でした。

次の章では天月さんのおすすめの曲を紹介したいと思います。

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著者:Ayaka

ボカロ・歌い手が好き。特に天月さん、まふまふさんのファン。天月さんの2018~2019年冬ツアーは9公演中4公演参加。2019年6月リリースの天月さんの新曲CDは18枚予約。30代以上の世代にもボカロや歌い手の素晴らしさを伝えたいと思っている。

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テイラー・スウィフト「セクハラ裁判」「トランプ政権への言及」について ~テイラーの社会貢献~

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~はこちらから!

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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この章ではTaylorの行ってきた「Swiftie(ファン)との交流」「社会貢献」を通して、Taylorの人格の素晴らしさをお伝えします。私がTaylorをお手本に歌手を目指しているのには、この人格の素晴らしさがとても大きな理由になっています。

このページではTaylorの「社会貢献」についてお伝えします。

 

Taylorの社会貢献

 

その美貌と人々の心を捉えて離さない音楽で、今や世界の頂点に立っていると言っても過言ではないTaylor。

いかなる立場になっても、常にTaylorは謙虚な姿勢を忘れず周りの人々を大切にし、社会への貢献もしているのです。

米サイト「DoSomething.org」が発表した「最もチャリティを行ったセレブ」において4年連続で1位を獲得しました。また、LGBT+支援団体テネシー・イクオリティ・プロジェクトに約1200万円寄付するなど、多額の寄付をすることでも知られています。

 

このページでは、非常にセンシティブな内容で世間を騒がせたセクハラにまつわる裁判と、米大統領Trump氏の政権についての言及という2つを取り上げて、Taylorがどのように社会貢献をしているかをお伝えします。

 

セクハラ裁判

 

ニュースで騒がれた「セクハラ裁判」は2013年6月のとある事件が発端でした。

コロラド州デンバーにて、コンサートの舞台裏でミートアンドグリートがあった時のことです。

当時DJとしてラジオ局勤務していたDavid MuellerがTaylorとの記念写真を撮影した際、彼女のスカートの中に手を入れて臀部をつかんだといいます。

その時の記念写真を見てもわかりますが、明らかにTaylorの臀部に手を当てていることがわかります。

このTaylorの訴えを聞いたスタッフらがラジオ局に被害を報告したことで、2日後にMuellerは解雇されました。

しかしながらその2年後の2015年9月、信じがたいことにMueller側がTaylorを訴えたのです。

「Taylorによる架空の訴えのせいで仕事を失った」と主張し、Taylorを含むその家族、スタッフらを名誉毀損で訴えました。さらに、失職中の年収2年分に当たる約3億2800万円の損害賠償まで請求しました。

 

これを受けたTaylor側が、ついにMuellerにセクハラを受けたとして賠償金100円を求める訴訟を起こしました。

Taylor側が求めた賠償金がたったの1ドル(100円)だったことに関して代理人は法廷で

「Taylorは、誰かが自分の体に触れようとしてきたらはっきり『No』と言って良いのだと伝えたいだけ。女性の臀部を触ることは暴行であり、いかなる場合においても間違いである。」

と述べたそうです。

 

そしてその後Taylor自身も法廷で証言をすることとなりました。

「あれは私がそれまで経験したことがないほどに大変恐ろしく、ショッキングな出来事だった」

とTaylor本人が証言していることからもわかるように、大変な精神的苦痛を与えられた事件だったはずです。(ちなみにTaylorが勝訴し賠償金1ドルを勝ち取りました。)

性的な類いの裁判は泣き寝入りする場合が多く、たとえ勝訴したとしても被害者側にそのトラウマが残る可能性があります。

また、証言することを恥ずかしいと感じてしまう人が多いのも現状です。屈辱で涙を拭う場面もあったと言いますが、全ての女性の権利と尊厳を守るためにTaylorは毅然とした態度で立ち向かいました。

SNS上では、この裁判に勇気付けられたという女性を多く目にしました。

影響力の大きいTaylorだからこそ為し得たことだと思います。この裁判をきっかけに、多くの性的被害に遭った女性たちが少しでも救われる方法を見出せることを切に願っています。

 

【筆者に聞いてみた】セクハラ裁判の時のファンの反応

Q.(Webon編集部)セクハラ裁判の時にファンの方はどのように感じたのでしょうか。

A.(筆者 Sakift氏)とても憤りを感じる事件でした。ファンとの交流が目的であるミートアンドグリートにおいてあのようなセクハラをすることは大変失礼で許しがたい行為です。弁護人を通して「すべての女性のために闘う」といっていたTaylorを応援し、裁判所の向かいのビルの窓にはポストイットで応援のメッセージが描かれました。

 

米大統領Trump氏の政権についての言及

 

セクハラ裁判も大々的にニュースで取り上げられることとなりましたが、多国間で取り上げられていたもう一つのニュースが、Taylorが発表した政治に関する声明です。

Taylorが政治的な自身の考えを表明したのは彼女のキャリア史上初めてだったため、各国でニュースとなりました。

Instagramにて突如投稿したトランプ政権に関する意思表明は、多くの反響を呼びました。

今まで政治的発言を避けていた彼女の大胆な批判は当然のことながらTrump氏本人の耳にも入り、彼の反感を買いました。11月に行われた中間選挙を前に、民主党(Trump氏は共和党)の候補者を支持するということを明記しているからです。

意思表明の内容を一部抜粋して和訳すると、

「私はTennessee州で投票します。(中略)どうか自分のいる州の候補者について知識を身につけ、より自分と価値観の近い人に投票してください。(中略)聡明且つ思いやりがあり、冷静沈着な多くの人々が過去2年間で18歳になりました。そして今、彼らは自分たちの投票に特別な意味を持たせることができるのです。」

といった内容のものでした。この投稿の中でTaylorは有権者に対し、積極的に投票用のサイト「Vote.org(=大統領選挙に投票できるインターネットサイト)」に登録し投票することを勧めました。

 

Taylorが投票を行なったTennessee州は、大統領選挙があった際にTrumpが過半数の票を得た場所でもあります。

今まで政治的発言をしてこなかったことで民主党、共和党支持者の双方から支持されているアーティストだったTaylorにとって、これはファンをも失うかもしれない発言でした。

しかしながらTaylorは男女の平等な権利やジェンダーにおける差別を問題視し、より彼女自身の価値観に近い民主党の候補者に加勢しました。

これを受けたTrump氏は「Taylor Swiftの音楽を25%嫌いになったとでも言っておこう」とコメントしました。

 

この勇気ある行動は多くの若者の心を動かし、この表明から24時間以内に65000人もの人が新たに投票用サイトに登録をしました。

Instagramのフォロワー数が1億人をゆうに超えているTaylorだからこそ、この発言の影響力は偉大であり、若い人々の政治に関する認識を変えることにつながりました。

日本に大統領制度はありませんが、18歳を超える有権者が投票に行くことの重要性においては同じことが言えると思います。

 

このように、色々な形で間接的・直接的に社会に貢献しているTaylor。

Taylorが社会貢献している点についてもその人間性を尊敬しており、Taylorを夢を追うロールモデルにしている私としては将来的にはTaylorのように人のために役立つことを必ず成し遂げたいと考えています。

 

 

以上、Taylorの「社会貢献」についてお伝えしました。

この章ではTaylorの「Swiftie(ファン)との交流」「社会貢献」についてお伝えしましたが、次の章からは「Taylorの音楽の変遷」を通してTaylorの魅力や私がTaylorから学んだことについてお伝えします。

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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テイラーのミートアンドグリートに選ばれた体験談 ~テイラーとSwiftieの繋がり~

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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『Taylor Swift入門』目次へ  (全7ページ)

 

この章ではTyalorの行ってきた「Swiftie(ファン)との交流」「社会貢献」を通して、Taylorの人格の素晴らしさをお伝えします。私がTaylorをお手本に歌手を目指しているのには、この人格の素晴らしさがとても大きな理由になっています。

このページではTaylorの「Swiftie(ファン)との交流」についてお伝えします。

 

Taylorはファンとの繋がりを大切にする

 

Taylorは昔から、ファンとの繋がりを何よりも大切にしていることでも知られています。

妊娠8ヶ月でホームレス状態だったファンをコンサートのバックステージに招待した上に、家と大量のベビー用品を贈呈したことがあります。度々ファンの結婚式にサプライズ登場し、歌を披露するなどの演出でファンを驚かせています。

Taylorというアーティストを語る上でSwiftie(=Taylorのファンのこと)の存在は欠かせません。

私自身10年間Swiftieでいる中で、Taylorは常にファンの心を大切にしてくれていると実感します。その理由はファンとの交流がほとんどないアーティストも多くいる中で、Taylor は「ミートアンドグリート」を行うなど特にファンとの関わりが深いと思うからです。

Swiftieの交流イベントのミートアンドグリートはTaylorがファンとの繋がりを大切にしているのがわかる顕著な例です。

以下ではミートアンドグリートについて詳しく紹介いたします。

 

【コラム】Taylorが人の心を大切にしていることがわかるエピソード

3歳にしてガンと戦いこの世を去ってしまったRonanという少年の母親が、ブログに天国の息子への想いを綴っていました。少年の母親がファンだったわけではありませんが、その文章を読み心を打たれたTaylorがRonanくんとその家族に宛て、母親とともに「Ronan」を作詞。Taylor自身が作曲をしました。

 

ミートアンドグリートとは

 

Taylorはデビュー当初のコンサートから、ファンを選びコンサート後にバックステージに無償で招待するという「ミートアンドグリート」を開催しています。

ミートアンドグリートではTaylorの母親Andrea Swiftやスタッフがコンサート中に客席から複数人を選び、バックステージに招待します。

招待される人数は毎コンサートごとに少しずつ異なります。私も選ばれたことがあり、その時は会場がさいたまスーパーアリーナだったので、37000人ほどの中から42名くらいが選ばれただろうと思います。

ミートアンドグリートの名称は毎アルバムごとに変わります。”RED”の時は”Club RED”、“1989”の時は”Loft ’89”、 “Reputation“の時は”Rep room”でした。

選ばれる際の基準は「Taylorに対する熱意」です。「一番元気で情熱が感じられる人をコンサート中に探している」とTaylor自身も発言しています。

心からコンサートを楽しみ、奇抜な衣装や凝ったボードなどを製作してきたことが目に見えて分かるSwiftieが選ばれています。

ミートアンドグリートは無償ですが、Taylorとのツーショット写真を撮ったりサインをもらえたり。会話も楽しめ、長い時間Taylorと過ごすことができます。

Taylorのコンサートでは、コンサート中に「ミートアンドグリートに選ばれるかもしれない」というワクワク感も楽しむことができるのです。

 

ミートアンドグリートに選ばれた筆者の体験

 

私は2014年に日本で行われたRED Tourでミートアンドグリートに招待されたことがあります。

当時はまだTaylorのコンサート後のミートアンドグリートについてあまり日本では知られていませんでしたが、私は事前に調べて知っていたため絶対に選ばれたいと考えていました。

コンサートには親友と2人で参加し、服装は完全に同じものにしました。

光るLEDスカートを海外から取り寄せ、Tシャツの表面にはアルバム「RED」に含まれる曲の歌詞を印刷しました。背面には手書きでTaylor Swiftの名前のアルファベットそれぞれを曲名などと繋げたものを書きました。さらに金色のウィッグ、手作りの帽子をかぶっていたので、衣装作りにおいての熱意も十分だったのではないでしょうか。

▼手作りの衣装

 

また、RED Tourの際はボードの持ち込みに関して特に規制がなかった為、かなり大きめのボードにハートのバルーンをつけるなどして工夫を凝らしました。

▼大きめのボードとハートのバルーン

 

準備万端で参加したRED Tourですがコンサート中は初めてTaylorを生で見ることができた感動からミートアンドグリートのことはほぼ頭にありませんでした。

コンサート中Taylorはより多くのSwiftieと触れ合うために、花道や通路を歩きながらハイタッチなどをします。

私も手に触れることができ、まさに感無量でした。

▼手を触れた瞬間

 

そしてコンサート終盤、大ヒット曲「I Knew You Were Trouble」の演奏中ふいに肩を叩かれ振り返ると、スタッフの方数人に「バックステージに来ないか?」と声をかけられました。

そして招待された証に、腕にリストバンドをはめてもらいました。その瞬間号泣して親友と抱き合い喜んだことをまるで昨日のことのように思い出します。

▼リストバンド(黄色いリストバンドが招待された証)

 

コンサート終了後に、まずは選ばれたメンバーが全員揃ったかの確認と、注意事項を一通り説明されました。その後ついにTaylorと会うことのできるバックステージへと通されます。

Taylorがバックステージに現れると1グループずつに丁寧なファンサービスをし、私の番が来るとまずは真っ先に抱きしめてくれました。

私がどれほどTaylorを好きかという想いの丈と、自身の夢を叶え歌手として再び会いたいということを伝え、それを聞いた彼女がとても喜んでくれたのを鮮明に覚えています。

さらに私の名前入りでサインを書いてくれました。

▼名前入りのサイン

▼Taylorの母Andrea Swiftと撮影した写真

 

余談ではありますが実際に選ばれてみて思うことは、選ばれることだけを考えるのではなくそのコンサートを純粋に楽しむことが選ばれる秘訣ではないかと思います。

このようにアーティスト本人と直接触れ合う機会がこんなにも多い海外アーティストはほぼいません。

ファンの心に一生残る、かけがえのない思い出を与えられるアーティストがTaylorです。

 

 

以上、Taylorの「Swiftie(ファン)との交流」についてお伝えしました。

次のページではTaylorの行ってきた「社会貢献」を通してTaylorの人格の素晴らしさをお伝えします。

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テイラー・スウィフトのデビューまでの道のり

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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このページではTaylorがどういった環境で育ち、どのようにして夢を持つようになったのかをお伝えします。

Taylorの道のりを知ることで、夢を追う上で具体的に何をすればいいのかが学べます。

 

【誕生】「Taylor Swift」名前の由来

 

Taylor Swiftという名前は、米シンガーソングライターであるJames Taylorr(ジェームス・テイラー)からとったと言われています。両親がJames Taylorのファンだったことに由来し、Taylorと名付けたそうです。

まるで生まれた時から歌手になることが必然だったかのような由来に思えます。

 

James Taylor(ジェームス・テイラー)とは


By Joella Marano, CC 表示-継承 2.0, Link 

1948年生まれのアメリカ合衆国出身のシンガーソングライター。2000年に「ロックの殿堂」入り。「君の友だち(You’ve Got a Friend)」で1972年にグラミー賞で最優秀楽曲賞を獲得している。

 

【幼少期】クリスマスツリーの農場

 

Taylorは「クリスマスツリーの農場」で育ったという少々意外な幼少期を過ごしました。

その環境はTaylorの歌手としての人生に多大な影響を与えたといいます。

Taylorの自由な歌詞づくりと、型にとらわれないスタイルの音楽創りには、こうした環境の影響が感じられます。

広大な土地を無制限に走り回れる自由な環境こそが、作詞作曲をする上での感性を育んだのかもしれません。

 

【11歳~】いじめの経験

 

Taylorは中学生の時にいじめを受けていました。

Taylorは辛いいじめに遭いながらも、ただ屈することなくその悔しさを音楽にぶつけていました。

毎日血の滲むような努力を重ね、暇さえあれば常にギターに触れていたといいます。彼女の等身大で共感できる作詞スタイルは、この経験からも来ていると思います。

 

Taylorが影響を受けたのは、当然ながら彼女を取り巻く「環境」だけではありません。

Taylorの母方の祖母はオペラ歌手で、テレビ番組の司会者としても活躍していたのです。祖母のMarjorie Finlay(マージョリー・フィンレイ)はオペラ歌手として活躍する一方で、教会の集会でもよく歌っていました。

さらにTaylorは、カントリー歌手LeAnn Rimes(リアン・ライムス)も幼少期から好きでした。こうした人々の影響を受けてTaylorは、歌手になるために多くの人の前で歌うにはどうすべきか考えました。

 

LeAnn Rimes(リアン・ライムス)


By https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/4008692987/, CC 表示 2.0, Link 

1982年生まれアメリカ出身のカントリー歌手。「ハウ・ドゥ・アイ・リヴ(How Do I Live)」Billboard Hot 100に69週間チャートに滞在し、当時の最高記録となった。同曲は2008年発表のBillboard All Time Top 100(50年間総合チャート)で4位となっている。

 

そこで、学校に通いながらスポーツイベントの開会式の国歌斉唱やコンテストなどの規模の大きいものから、地元のフェスティバルや喫茶店など様々な場所で歌を歌いました。最も有名なものと言えば12歳の時にNBAの試合前に国歌斉唱を行ったこともありました。

幼少期からすでに卓越した歌唱力があり、歌手としての才能は十分だったのです。

 

小さい頃から作詞をしていたと語るTaylor。

Taylorは10歳にして”A Monster in My Closet”という詩を書き作詞コンテストにて入賞しています。幼い頃から作詞における持ち前のセンスを発揮していました。

ペンシルベニア州出身であるTaylorは11歳の頃、アメリカのカントリー歌手のFaith Hillがナッシュビルに移住した後に歌手として成功したことに影響を受け、自分もカントリーミュージックの聖地ナッシュビルに引っ越す必要性があると考えていました。

そのため常々両親にも相談していたそうです。

またその頃、ナッシュビルにある多くのレーベルにデモテープを提出していましたが、若すぎるということもありなかなかその評価は上がらずにいました。

 

12歳の頃のTaylorの逸話に「コンピュータの修理士が家に来た際にTaylorにc,d,gの三つのコードを教え、その日の夜に「Lucky You」という曲を作曲した」というものがあります。

幼い頃から音楽への関心が強かったTaylorは、頭の回転が早い上に大変物覚えが良かったということがわかります。頭の回転が早いことは大人になり成熟した今も変わらぬTaylorの魅力だと思います。

そういった才能が幼い頃からありながらも、なかなか契約には結びつきませんでした。

 

【14歳~】RCAレコードと契約

 

その後、14歳という異例の若さでRCAレコードの養成所と契約したTaylor。Sony ATVミュージックパブリッシング(世界最大の音楽出版社)にソングライターとして最年少で採用されました。

異例の若さの契約を可能としたのは、大きな舞台で国歌斉唱をしたことや、その歌唱力と類まれな外見が認められたからだと思います。

それと同時にTaylorの家族は全員でナッシュビルに転居しました。Taylorに極力プレッシャーをかけないよう気遣った両親は「引越したのはナッシュビルの街が好きだからだ。」と言ってくれていたそうです。

引越しの理由は父親の仕事先がナッシュビルになったというのもありますが、おそらくそれほど引越しの必要性はなかったと思います。Taylorの夢を家族全員で応援していたそうなので、実質上はTaylorのためだったのではないでしょうか。

 

【16歳~】デビューアルバムリリース

 

Taylorは自らの作詞作曲でアルバムを出したいと考えていました。

そんな彼女の要望とは裏腹に、事務所は他のソングライターの曲を歌わせようとしました。またTaylorのアルバム出版は18歳まで待つという方針でした。

自分に意向に沿わなかったためTaylorは事務所を離れる決意をします。

 

そんな中、ナッシュビルにあるミニライブハウス”Blue bard Cafe”でパフォーマンスしていたTaylorに、Big Machine Record(ビッグマシン・レコード)を設立しようとしていたScott Borchetta(スコット・ボーチェッタ)が目をつけました。

Taylorの類いまれなる容姿とその歌声を聴けば、誰しもがスカウトしたくなると思います。

その後着実に話は進み、TaylorがBig Machine Recordの1人目の契約者となったのです。

RCA所属時は事務所の曲作りの方針と合わず悩んでいたTaylorですが「全てを彼女の好きなようにしていい」と言ったScott Borchettaとの事務所契約により、彼女はあっという間にファーストアルバムを手がけることとなります。

2006年10月24日、Taylorが16歳の時にリリースされた『Taylor Swift』は、瞬く間にBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録。

▼アルバム「Taylor Swift」(画像クリックで商品詳細へ)

▼収録曲「Teardrops On My Guitar」 Billboard Hot 100 最高13位

▼収録曲「Our Song」 Billboard Hot 100 最高16位

 

デビューアルバムにしてカントリー界の市場を制しました。こうして彼女のサクセスストーリーが始まったのです。

 

さてアルバム『Taylor Swift』でBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録したTaylorですが、このような成功の背景にはいじめを受けても努力を重ね、引越しの相談、デモテープを送るなどの行動を常にしていたことが要因に挙げられます。

Taylorには才能がありました。ただ才能があったとしても実際に活かせていない人が多くいる中、行動することが何より大切だと気づいていたTaylorは尊敬に値します。なるべくして歌手になったのだと思います。

Taylorが幼少期からどういった活動をしてきたのかその道のりを振り返ると、夢を追う上でより具体的に何をすればいいのかがわかると感じています。

 

 

このページではTaylorのデビューまでの道のりから彼女の魅力と歌手の夢を追う上で学ぶべきことをお伝えしてきました。

次の章からTaylorの人格を通して彼女の魅力や学べることについてお伝えします。

『Taylor Swift入門』目次へ  (全7ページ)

 

目次著者

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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KANおすすめの名曲 【おふざけ・変態・自虐編】

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KANさんは200万枚を超える大ヒット曲「愛は勝つ」で有名ですが、この曲はKANさんのほんの一面に過ぎないのです。ファン歴30年がKANさんの魅力を人柄・ライブ・楽曲に分けて徹底解説!

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著者:しあ

40代後半女性。KANのファン歴30年。1988年「BRACKET」を聴いて感動したのが出逢い。ライブが大好きで今まで行ったライブは数百本。

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KANさんの楽曲には、様々なテイストのものがあり、その才能の豊かさに驚かされます。

この章では私の個人的主観で、

【バラード・ミディアム編】
【ポップ編】
【おふざけ・変態・自虐編】
【オマージュ編】
【コラボ編】

と5つにジャンル分けしてぜひ聴いていただきたい楽曲をご紹介したいと思います。

KANさんの歌には、コミカルなものも多いです。

こちらのページでは、おふざけ、変態、自虐的な楽曲についてご紹介します。

KANさんならではの感性で表現されているもので、天才であり変態である彼の魅力がよくわかるのでは、と思います。

 

① 丸いお尻が許せない

「30歳になったらエロな曲を創りたい」と思っていたKANさんの元祖変態ソング。
リリースは1993年ですが、当時このタイトルを見て驚きました。

なかなかないです、こんなタイトル。

KANさんが30歳を迎えて満を持して発表した渾身の1曲なので、スタッフもOKを出したのでは。

歌詞の内容は、まだ自分のものではない好きな女の子の事を想う歌で、彼女の丸いお尻に恋焦がれているさまが描かれています。

KANさんが言う「エロソング」といっても、これはまだ序の口でかわいいものです。

しかし、リリース当時は「愛は勝つ」の大ヒットの後ですから、私の周りでも

「KANちゃんおもしろい」

「KANの歌、変」

という賛否両論が起こっていました。

▼「丸いお尻が許せない」収録アルバム「TOKYOMAN」

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