『JAGATARA』入門 はこちらから!
はじめに
第1章 活動休止までの軌跡
第2章 復帰後の軌跡
『JAGATARA入門』目次へ (全5ページ)
今は亡き江戸アケミが率いたJAGATARAを知っている人は熱狂的なJAGATARAのファンだと思います。
JAGATARAはこれからというときに江戸アケミが亡くなってしまいました。「伝説」と化して歴史に固定化されることを嫌っていた江戸アケミ自身にとっては不本意かもしれませんが、今やJAGATARAというバンドは「伝説」と化しています。
このページでは最初のギグから名盤の誉れ高い伝説のデビュー・アルバム「南蛮渡来」発表までの軌跡をお伝えします。
▼このページで紹介する出来事
年月 | 出来事 |
1979年 | 最初のギグ |
1980年 | 過激なパフォーマンスに走る |
1982年5月 | デビューアルバム「南蛮渡来」 |
【1979年】最初のギグ
JAGATARAというバンドが活動を開始したのは1979年のことでした。
JAGATARAのファースト・ギグといわれているのが1979年3月8日、東京都世田谷区上馬にあったライヴ・ハウス「ガソリンアレイ」での“江戸&じゃがたら”とのバンド名で“猫だまし演芸一座ジョイントコンサート”と銘打って行われたギクです。
当時のJAGATARAは音楽性に脂がのっていた頃のJAGATARAのアフロビート(ジャズやファンクの要素を下地としたアフリカ音楽)とファンク・ビートがはね暴れるものとはかなり違っていてロックンロール色が強いものだったようです。
メンバーもJAGATARAの音楽の核となるメンバーであるOTO(村田尚紀・ギター)などはまだ参加していませんでした。
一方で江戸アケミはアメリカ南部のブルージーなロックがしたくて、メンバー募集の告知をしていました。江戸アケミの根本にはブルースがあったのです。
【1980年】江戸アケミが過激なライヴ・パフォーマンスへ走る
JAGATARAの原型ができた1980年。
江戸アケミは当時、全盛だったパンク・ロック(1970年代半ばにアメリカで誕生した過激で攻撃的なロック)を標榜していました。
しかし、生真面目で大変な照れ屋だった江戸アケミはライヴでのMCが大の苦手。それでもMCをするのですが、その際いわゆる“親父ギャグ”を飛ばします。
しかし、それがあまりにもくだらなくて客からヤジが飛びます。
あるときそれに窮した江戸アケミは何を思ったかマイクに頭をゴツンとぶつけたのです。
それが観客にウケてしまったのが運の尽きだったのです。
この自虐的なパフォーマンスはエスカレートせざるを得ないのです。
それというのも、観客は前と同じパフォーマンスでは満足しないものです。
江戸アケミは生真面目で照れ屋であった反動で異常なまでにサービス精神があったために、観客がはやし立てれば、それに応じてより過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。
初めはマイクにゴツンと頭をぶつけていたものが、激しくマイクに頭をぶつけるようになり、それを観客が喜んだのです。
観客が喜べば、江戸アケミは何でもしてしまうのです。
さらに過激になるライヴ・パフォーマンス
観客は江戸アケミの自虐的なパフォーマンス見たさに大勢やってきていました。
江戸アケミのライヴ・パフォーマンスにより、ライヴ・ハウスはいつも観客でいっぱいだったそうです。
江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは観客の求めを満足させるために更に更に過激さを増していきました。
鶏やシマヘビを食いちぎりそれを食らって、そして自らをフォークやカミソリで切りつけ、時には出血多量で救急車で病院に運ばれるまで、自虐的な江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは過激になっていきました。
また、ときには他のバンドのライヴに殴り込んでは血だらけでぶっ倒れたり、全裸になったりもしていました。
観客には“江戸アケミ信者”のような人たちが現れ、怖いもの見たさでライヴ・ハウスは大盛況だったと言われています。
初めは江戸アケミ本人がやりたくてやっていたパフォーマンスでしたが、江戸アケミは次第にそんなパフォーマンスに嫌気がさしてきて、本心ではやりたくなくなっていたのです。
しかし、観客がはやし立てるから過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。
江戸アケミは当時、負の連鎖の中にいました。
1980年8月、負の連鎖を断ち切ろうと江戸アケミは過激なパフォーマンスはもう金輪際やめて、音楽で勝負する決意をします。
そして時を同じくしてJAGATARAの音楽の核となるOTOが加入します。
この後、JAGATARAは“暗黒大陸じゃがたら”と名乗り、ツアーを敢行し、全国のライヴ・ハウスを巡ります。
【1982年5月】「南蛮渡来」リリース
まだ、インディーズという言葉もほとんど知られていない時代の1982年、JAGATARAは暗黒大陸じゃがたら名義でファースト・アルバム「南蛮渡来」をリリースします。
▼アルバム「南蛮渡来」(画像クリックで商品詳細へ)
このアルバムは少なからず、業界関係者だけでなく一般のJAGATARAのファンに衝撃を与えるものだったのです。
例えば音楽雑誌『ロッキング・オン』の編集者兼代表取締役でラジオのパーソナリティとしても知られている渋谷陽一氏に高く評価されました。
渋谷陽一氏のラジオ番組に出演したり、音楽評論家中村とうよう氏にも高く評価されたりと「南蛮渡来」は発表当時、日本を代表する音楽評論家に高く評価されたのです。
南蛮渡来はどんなアルバム?
「南蛮渡来」は“日本人てくらいね、性格がくらいね”という言葉とサックスが強烈な印象の「でも・デモ・DEMO」のファンク・ナンバーで始まります。
この中で、親しい人やどうでもいい人に対して別れを言って“せこく生きてちょうだい”と突き放す江戸アケミ。
これは思うに過去の自分自身に対しての惜別の言葉にもとれます。
更にいえば江戸アケミが書く歌詞はどれもが江戸アケミの遺言のように思えて仕方がないのです。実際に曲を聴けば、それが伝わってくることでしょう。
ノイジーなパンク・ナンバーの「季節のおわり」では“何かがちがう”社会への反抗が歌い上げられ、「BABY」ではパンキッシュなファンク・ビートに乗せて、江戸アケミの思いの丈をがなるように歌われています。
そして大槻ケンジらにカヴァーされ愛されている名曲「タンゴ」。
“都会の隅で”生きてゆく生きづらさをアフロビートによるアレンジのレゲエ・ナンバーとしてその不合理を切々と江戸アケミが歌い上げています。
社会に対する敵愾心むき出しのパンク・ナンバーの「アジテーション」は、他者との関係の破綻から見えてくる社会の嘘くささに対する“アジテーション”です。
パンク・ナンバーの「ヴァギナ・FUCK」では卑猥な言葉で聴くものをアジテーションしています。
パンキッシュなレゲエ・ナンバーの「FADE OUT」も“息苦しくてかなわない”日常に対する反抗の歌で、そんな終わらない日常から逃れられないことに嫌気がさして仕方がない様が言葉を吐き出すように歌われています。
終曲は一転してこれまた名曲「クニナマシュ」です。
“人類ミナ兄弟”とアフロビートに江戸アケミは心底乗ることに集中しています。
そして「クニナマシュ」では女声がうまく使われています。
「クニナマシュ」は次第にカオス状態になっていって有名な“ぼくたちは光の中でチャチャチャ”というフレーズを女声が歌い、その中を江戸アケミが息苦しそうに“あいつの躰に 火をつけろ”とあまりに残酷な“祭り”を煽って終わりを迎えます。
なお、1989年にCDが再々発売された際にボーナストラックとして「元祖家族百景」「ウォークマンのテーマ」が収録されました。
さて、ここまでは名盤「南蛮渡来」のリリースまでの活動を振り返ってまいりましたが、次のページではシングル「家族百景」リリースから、江戸アケミの精神疾患の発症の経緯などをお伝えします。
『JAGATARA入門』目次へ (全5ページ)
はじめに
第1章 活動休止までの軌跡
第2章 復帰後の軌跡