JAGATARAの軌跡③  【江戸アケミの復帰】

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鶏やヘビを食いちぎるなどの過激なパフォーマンスで注目を浴びたJAGATARA。精神疾患を患いながらも奇跡の復帰を遂げた江戸アケミ。そして死まで。1980年代を駆け抜けた伝説のバンドの軌跡をお伝えします!

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著者 積 緋露雪

1964年生まれ。音楽雑誌「CDで~た」の執筆・編集・企画を担当。ライター歴20年以上。小説『審問官』シリーズ出版。

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前ページでは江戸アケミの精神疾患が発症するまでの軌跡を振り返ってまりました。

このページでは、江戸アケミの復帰の第一歩となるコンサート「アースビート伝説85」への出演から、アルバム「ニセ予言者ども」のリリースまでの軌跡を振り返ってまいりましょう。

 

▼このページで紹介する出来事

年月 出来事
1985年9月 「アースビート伝説85」江戸アケミ出演(復帰の第一歩)
1987年3月 アルバム「裸の王様」リリース
1987年12月 アルバム「ニセ予言者ども」
全体年表はこちら(クリックorタップで開く)
年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
1983年5月 シングル「家族百景」
1983年 スタジオ制作
1983年11月頃~ 江戸アケミ精神疾患発症・JAGATARA活動休止
1985年9月 「アースビート伝説85」江戸アケミ出演(復帰の第一歩)
1987年3月 アルバム「裸の王様」リリース
1987年12月 アルバム「ニセ予言者ども」
1988年4月 アルバム「それから」でメジャーデビュー
1989年12月 アルバム「ごくつぶし」(江戸アケミ生前最後のアルバム)
1990年1月 江戸アケミ死亡
1990年7月 アルバム「おあそび」

 

【1983年~1985年】江戸アケミ活動休止中のJAGATARA

 

江戸アケミは発病後に入院しましたが、それでも外出許可がもらえた時などはライヴに出演していたりもしていました。

しかし、故郷の高知県に帰郷した江戸アケミは前述の通り四万十川をぼうっと眺めるのを日課にして、回復をじっと待っていたのです。

その間、江戸アケミ以外のメンバーはどうしていたかというと、江戸アケミの復帰を我慢強く待ちながらも、それぞれ演奏の技術を向上させようとセッションを重ねたり、または自身のバンドを作るなどして音楽活動を継続していました。

この江戸アケミの活動休止期間というのは、JAGATARAというバンドの形が、それまで江戸アケミという強烈な個性の渦に各メンバーが丸ごと呑み込まれた形でのバンド形式から、各メンバーが力をつけることで、各メンバーが小さいながらもしっかりと渦を巻きながら江戸アケミの強烈な渦に丸ごと呑み込まれることなく各自が自存しながらも連動する“共同体”へと次第にバンドの形式が変化してゆく過程でもあったのです。

つまり江戸アケミ以外のメンバーもJAGATARAが活動休止していた時間にそれぞれ実力をつけ、また自分を見つめ直す時間が持てたことにより、各メンバーにもまた江戸アケミの強烈な個性と対峙できる“個性”が備わったのです。

こうして江戸アケミ不在のJAGATARAは活動休止という窮地の時間の中、江戸アケミ以外の各メンバーはたくましく成長を遂げたのでした。

 

【1985年】「アースビート伝説85」で江戸アケミ復帰の第一歩を飾る

 

江戸アケミが精神疾患を発症してから約3年経った1985年9月15日。

東京都・日比谷野音で世界各国の音楽が集結したコンサート「アースビート伝説85」が雨降る中、決行されました。

このコンサートに江戸アケミは高知県から駆けつけ、久しぶりにJAGATARAとして出演することになったのです。

これはギターのOTOらが江戸アケミの復帰を切望したから奇跡的に実現したといっても過言ではありません。

江戸アケミはというと、薬のせいでろれつが回らずにしゃべられないにもかかわらず、演奏が始まるとむっくりと何かが江戸アケミの内部で目覚めたかのように身体は踊り出し力強い歌声を発するのでした。

症状的に厳しい状態であったにも関わらず、復帰できたことは奇跡に近いものがあります。

このコンサートにはJAGATARAの外に、八丈太鼓(日本)、ハムザ・エル・ディン(スーダン)、フランシス・シルヴァ(ブラジル)、ネパール民族舞踏団(ネパール)、フールズ(日本)、後に芥川賞を受賞することになる町田康氏が「町田町蔵」名義で率いた町田町蔵+人民オリンピックショー(日本)などバラエティに富んだ出演者が出演しました。なお、町田町蔵と江戸アケミはセッションをする間柄でした。

この「アースビート伝説85」で江戸アケミは復帰への第一歩を踏み出したのです。

 

【1987年1月】江戸アケミが再上京しアルバム「裸の王様」完成


▲アルバム「裸の王様」(画像クリックで商品詳細へ)

 

この頃、江戸アケミはOTOの言うことだけは聞いたそうです。

そのOTOの強い勧めもあって江戸アケミは病気は根治していないにもかかわらず、再上京します。

当時の江戸アケミは薬のせいでぼうっとし、ろれつがよく回らない状態なのでしたが、ひとたび歌になると病気を発症する以前よりもなお一層ビートに乗り、歌う姿は神々しく見えていたそうです。

JAGATARAのメンバーはこの頃、衣装をそろえ、JAGATARAが変わったことを強く印象づけるのでした。

そして1987年1月にアルバム「裸の王様」が完成します。

 

「裸の王様」はどんなアルバム?

 

アフロビート全開でどこか切なさが漂うアルバム・タイトル曲「裸の王様」で幕を開けるアルバム「裸の王様」。江戸アケミが薬漬けでまだ、ひどい状態だとは微塵も感じられないほど溌剌と切れ味鋭いヴォーカルが収録されています。

またサックスが一際光る演奏を聴かせていています。

なるほど、JAGATARAの各メンバーは演奏力をかなり上げたと思われます。

各メンバーが演奏力を上げると自然と江戸アケミに意見が言えるようになり、実際に、JAGATARAの各メンバーはかなり議論を重ねて音作りなどをしていたそうです。

新たに加わったYukarie(ユカリ)の女声コーラスがとてもよい味を出している「岬でまつわ」もアフロビートが効いたナンバーで、うねるビートに全身全霊で乗る江戸アケミのヴォーカルは聴き応え十分です。

ギターが光る「ジャンキー・ティーチャー」もアフロビート・ナンバーです。

とはいえ、ここはJAGATARAです。JAGATARAの音楽は一筋縄ではいかず単にアフロビートをそのまま取り入れることはなく、アイデア満載なのです。

基本のビートはアフロビートなのですがビートに乗った江戸アケミは破天荒ともいえるように暴れ回ります。

また、例えばフランク・ザッパのようにハチャメチャなのです。

それでいて、カオスには陥らず、江戸アケミがその強烈な個性で、曲をギリギリの線でなんとかまとめてしまうのです。その豪腕ぶりに凄みがあります。

「ジャンキー・ティーチャー」はかなりユニークなナンバーといえ、途中、“危ないね 危ないね 危ないね”と不安を煽るようなサウンドがあるかと思えば、エンディングでは江戸アケミがジャンキー・ティーチャー(聴いている人を指している)に対して“この中にたったひとつだけ正解がある”などとがなり立て、挑発します。

最後は哀愁漂い名曲と言われているレゲエ・ナンバーの「もうがまんできない」です。

“ちょっとのひずみならがまん次第でなんとかやれる”と歌う江戸アケミは最後は“心の持ちようさ”とかなり深刻に歌い上げ、この言葉が胸に突き刺さるのです。

 

【1987年12月】アルバム「ニセ予言者ども」リリース


▲アルバム「ニセ予言者ども」

 

1987年12月にはアルバム「ニセ予言者ども」をリリースします。

 

「ニセ予言者ども」はどんなアルバム?

 

ファンク・ビートが跳ね暴れる「少年少女」「みちくさ」で、江戸アケミはビートに全身全霊で乗っているのです。

「少年少女」では夢や未来ある少年少女の現実からの解放を歌い上げ、

「みちくさ」ではホーン・セクションが花を添えながら、“時は流れ 人はまた去る”と歌っては“おまえの考えひとつで どうにでもなるさ”と江戸アケミ自身にいい聞かせるように歌っています。

江戸アケミの精神疾患でJAGATARAが活動休止せざるを得なかったことを指して「みちくさ」といっているのか、“やりたいことがたくさん残ってる”と叫ぶ江戸アケミは活動再開したことに対してやる気満々といった気概が伝わってきます。

しかし一方で、それは江戸アケミの遺言にも聞こえるのです。

 

これまた、ファンク・ビートが跳ね回る「ゴーグル、それをしろ」でも江戸アケミは全身全霊でビートに乗っています。

現実が幻想という化け物に取り憑かれているのでそれを避けるために“ゴーグル”をしろと江戸アケミは訴えているのです。

“俺は何でも見てきた 魂の抜け殻になった奴らを”と歌うところなど、グサリと心に突き刺さる強烈な印象を残すナンバーが「ゴーグル、それをしろ」です。

 

最後は哀愁を帯びたアフロビート・ナンバーで名曲といわれている「都市生活者の夜」です。

“昨日は事実 今日は存在 明日は希望”という歌詞がとても印象に残るこのナンバーで、江戸アケミは都市生活者が否応なく帯びてしまう存在の哀しみを実によく表現していて、深く深く歌詞が心に染み入る名曲と呼ばれるにふさわしいナンバーが「都市生活者の夜」なのです。

 

【コラム】「ニセ予言者ども」が傑出したアルバムである理由

このアルバムでの江戸アケミは弾けるファンク・ビートに日本人離れしたリズム感で乗り、また収録されたナンバーの歌詞が、心に突き刺さるものであったり、じんわりと心に染み入るものであったり。その歌詞が激しい江戸アケミのヴォーカルとは裏腹にまだ、精神疾患が根治していなかった江戸アケミの「存在の哀しみ」が滲み出たナンバーばかりなのです。

「やりたいことがいっぱい残ってる」といった「魂の叫び」を上げもしています。また、バンド演奏もこのアルバムではほどよい緊張感の中、引き締まった演奏で、心にビンビンと響くのです。JAGATARAの「顔」であったファンク・ビートがこのアルバムは傑出してよく、また、アフロビート(ジャズやファンクの要素を下地としたアフリカ音楽)も取り入れてのナンバーの哀愁など、JAGATARAのこれからを決定したアルバムと言っても過言ではありません。

 

さて、このページでは江戸アケミ復帰後のJAGATARAの軌跡を振り返ってまいりました。次のページではJAGATARAのメジャーデビューから、江戸アケミの死後リリースされた「おあそび」などについてお伝えします。

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著者 積 緋露雪

1964年生まれ。音楽雑誌「CDで~た」の執筆・編集・企画を担当。ライター歴20年以上。小説『審問官』シリーズ出版。

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JAGATARAの軌跡① 【ヘビを食いちぎる過激パフォーマンス!伝説のアルバム「南蛮渡来」】

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鶏やヘビを食いちぎるなどの過激なパフォーマンスで注目を浴びたJAGATARA。精神疾患を患いながらも奇跡の復帰を遂げた江戸アケミ。そして死まで。1980年代を駆け抜けた伝説のバンドの軌跡をお伝えします!

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1964年生まれ。音楽雑誌「CDで~た」の執筆・編集・企画を担当。ライター歴20年以上。小説『審問官』シリーズ出版。

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今は亡き江戸アケミが率いたJAGATARAを知っている人は熱狂的なJAGATARAのファンだと思います。

JAGATARAはこれからというときに江戸アケミが亡くなってしまいました。「伝説」と化して歴史に固定化されることを嫌っていた江戸アケミ自身にとっては不本意かもしれませんが、今やJAGATARAというバンドは「伝説」と化しています。

このページでは最初のギグから名盤の誉れ高い伝説のデビュー・アルバム「南蛮渡来」発表までの軌跡をお伝えします。

▼このページで紹介する出来事

年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
全体年表はこちら(クリックorタップで開く)
年月 出来事
1979年 最初のギグ
1980年 過激なパフォーマンスに走る
1982年5月 デビューアルバム「南蛮渡来」
1983年5月 シングル「家族百景」
1983年 スタジオ制作
1983年11月頃~ 江戸アケミ精神疾患発症・JAGATARA活動休止
1985年9月 「アースビート伝説85」江戸アケミ出演(復帰の第一歩)
1987年3月 アルバム「裸の王様」リリース
1987年12月 アルバム「ニセ予言者ども」
1988年4月 アルバム「それから」でメジャーデビュー
1989年12月 アルバム「ごくつぶし」(江戸アケミ生前最後のアルバム)
1990年1月 江戸アケミ死亡
1990年7月 アルバム「おあそび」

 

【1979年】最初のギグ

 

JAGATARAというバンドが活動を開始したのは1979年のことでした。

JAGATARAのファースト・ギグといわれているのが1979年3月8日、東京都世田谷区上馬にあったライヴ・ハウス「ガソリンアレイ」での“江戸&じゃがたら”とのバンド名で“猫だまし演芸一座ジョイントコンサート”と銘打って行われたギクです。

当時のJAGATARAは音楽性に脂がのっていた頃のJAGATARAのアフロビート(ジャズやファンクの要素を下地としたアフリカ音楽)とファンク・ビートがはね暴れるものとはかなり違っていてロックンロール色が強いものだったようです。

メンバーもJAGATARAの音楽の核となるメンバーであるOTO(村田尚紀・ギター)などはまだ参加していませんでした。

一方で江戸アケミはアメリカ南部のブルージーなロックがしたくて、メンバー募集の告知をしていました。江戸アケミの根本にはブルースがあったのです。

 

【1980年】江戸アケミが過激なライヴ・パフォーマンスへ走る

 

JAGATARAの原型ができた1980年。

江戸アケミは当時、全盛だったパンク・ロック(1970年代半ばにアメリカで誕生した過激で攻撃的なロック)を標榜していました。

しかし、生真面目で大変な照れ屋だった江戸アケミはライヴでのMCが大の苦手。それでもMCをするのですが、その際いわゆる“親父ギャグ”を飛ばします。

しかし、それがあまりにもくだらなくて客からヤジが飛びます。

あるときそれに窮した江戸アケミは何を思ったかマイクに頭をゴツンとぶつけたのです。

それが観客にウケてしまったのが運の尽きだったのです。

この自虐的なパフォーマンスはエスカレートせざるを得ないのです。

それというのも、観客は前と同じパフォーマンスでは満足しないものです。

江戸アケミは生真面目で照れ屋であった反動で異常なまでにサービス精神があったために、観客がはやし立てれば、それに応じてより過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。

初めはマイクにゴツンと頭をぶつけていたものが、激しくマイクに頭をぶつけるようになり、それを観客が喜んだのです。

観客が喜べば、江戸アケミは何でもしてしまうのです。

 

さらに過激になるライヴ・パフォーマンス

 

観客は江戸アケミの自虐的なパフォーマンス見たさに大勢やってきていました。

江戸アケミのライヴ・パフォーマンスにより、ライヴ・ハウスはいつも観客でいっぱいだったそうです。

江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは観客の求めを満足させるために更に更に過激さを増していきました。

鶏やシマヘビを食いちぎりそれを食らって、そして自らをフォークやカミソリで切りつけ、時には出血多量で救急車で病院に運ばれるまで、自虐的な江戸アケミのライヴ・パフォーマンスは過激になっていきました。

また、ときには他のバンドのライヴに殴り込んでは血だらけでぶっ倒れたり、全裸になったりもしていました。

観客には“江戸アケミ信者”のような人たちが現れ、怖いもの見たさでライヴ・ハウスは大盛況だったと言われています。

 

初めは江戸アケミ本人がやりたくてやっていたパフォーマンスでしたが、江戸アケミは次第にそんなパフォーマンスに嫌気がさしてきて、本心ではやりたくなくなっていたのです。

しかし、観客がはやし立てるから過激なパフォーマンスをしてしまうのでした。

江戸アケミは当時、負の連鎖の中にいました。

1980年8月、負の連鎖を断ち切ろうと江戸アケミは過激なパフォーマンスはもう金輪際やめて、音楽で勝負する決意をします。

そして時を同じくしてJAGATARAの音楽の核となるOTOが加入します。

この後、JAGATARAは“暗黒大陸じゃがたら”と名乗り、ツアーを敢行し、全国のライヴ・ハウスを巡ります。

 

【1982年5月】「南蛮渡来」リリース

 

まだ、インディーズという言葉もほとんど知られていない時代の1982年、JAGATARAは暗黒大陸じゃがたら名義でファースト・アルバム「南蛮渡来」をリリースします。

▼アルバム「南蛮渡来」(画像クリックで商品詳細へ)

このアルバムは少なからず、業界関係者だけでなく一般のJAGATARAのファンに衝撃を与えるものだったのです。

例えば音楽雑誌『ロッキング・オン』の編集者兼代表取締役でラジオのパーソナリティとしても知られている渋谷陽一氏に高く評価されました。

渋谷陽一氏のラジオ番組に出演したり、音楽評論家中村とうよう氏にも高く評価されたりと「南蛮渡来」は発表当時、日本を代表する音楽評論家に高く評価されたのです。

 

南蛮渡来はどんなアルバム?

 

「南蛮渡来」は“日本人てくらいね、性格がくらいね”という言葉とサックスが強烈な印象の「でも・デモ・DEMO」のファンク・ナンバーで始まります。

この中で、親しい人やどうでもいい人に対して別れを言って“せこく生きてちょうだい”と突き放す江戸アケミ。

これは思うに過去の自分自身に対しての惜別の言葉にもとれます。

更にいえば江戸アケミが書く歌詞はどれもが江戸アケミの遺言のように思えて仕方がないのです。実際に曲を聴けば、それが伝わってくることでしょう。

 

ノイジーなパンク・ナンバーの「季節のおわり」では“何かがちがう”社会への反抗が歌い上げられ、「BABY」ではパンキッシュなファンク・ビートに乗せて、江戸アケミの思いの丈をがなるように歌われています。

 

そして大槻ケンジらにカヴァーされ愛されている名曲「タンゴ」

“都会の隅で”生きてゆく生きづらさをアフロビートによるアレンジのレゲエ・ナンバーとしてその不合理を切々と江戸アケミが歌い上げています。

 

社会に対する敵愾心むき出しのパンク・ナンバーの「アジテーション」は、他者との関係の破綻から見えてくる社会の嘘くささに対する“アジテーション”です。

パンク・ナンバーの「ヴァギナ・FUCK」では卑猥な言葉で聴くものをアジテーションしています。

パンキッシュなレゲエ・ナンバーの「FADE OUT」も“息苦しくてかなわない”日常に対する反抗の歌で、そんな終わらない日常から逃れられないことに嫌気がさして仕方がない様が言葉を吐き出すように歌われています。

 

終曲は一転してこれまた名曲「クニナマシュ」です。

“人類ミナ兄弟”とアフロビートに江戸アケミは心底乗ることに集中しています。

そして「クニナマシュ」では女声がうまく使われています。

「クニナマシュ」は次第にカオス状態になっていって有名な“ぼくたちは光の中でチャチャチャ”というフレーズを女声が歌い、その中を江戸アケミが息苦しそうに“あいつの躰に 火をつけろ”とあまりに残酷な“祭り”を煽って終わりを迎えます。

なお、1989年にCDが再々発売された際にボーナストラックとして「元祖家族百景」「ウォークマンのテーマ」が収録されました。

 

さて、ここまでは名盤「南蛮渡来」のリリースまでの活動を振り返ってまいりましたが、次のページではシングル「家族百景」リリースから、江戸アケミの精神疾患の発症の経緯などをお伝えします。

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著者 積 緋露雪

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