ロリータに対する家族と近所の反応 ~忘れてはいけない周囲との関係性~

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20年以上ロリータファッションを愛し続けた筆者がロリータファッションの基礎知識とリアル過ぎるロリータ事情を語ります!これからロリータを着る人必読!現実とのバランスのとり方も含めてロリータについてまるっと学べるロリータ入門の決定版!

ロリータファッション入門 ~現実世界とのバランスを考えた楽しみ方~(全22ページ)はこちらから!

著者:佐藤遊佳(さとう ゆうか)

高校卒業と同時にロリータファッションに目覚め、以来13年間私服ではずっとロリータ服やゴシック&ロリータ服を着続ける。鍼灸師として患者さんを診るかたわら、ロリータファッションの服飾小物、アクセサリーの個人作家として活動。現在は結婚し地元で鍼灸院を開業し、執筆活動もしている。

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ロリータファッションは普通のファッションとは違い、日常生活とのバランスをどう取るかが重要となってきます。

この章ではロリータ服の現実的な側面をお伝えするとともに、ロリータ服を着る上で気をつけた方がよいことについてお伝えします。

日常生活とのバランスをどう取るのかのヒントになればと思います。

このページではロリータ服に対する「家族」や「近所の住民」の反応や、それに対してどのように対処した方がよいかをお伝えいたします。

 

ロリータ服に対する【家族】【近所の住民】の反応

家族の反応

 

私は高校を卒業後に進学して一人暮らしを初めてからいきなり金髪に染め、ロリータ服を着てゴールデンウィークに帰省しました。

同居の祖母は「孫の頭がおかしくなった」と泣き、母は激怒して私を美容院へ引きずって行き「髪を黒く戻せ」と言い、帰って来たらロリータ服は捨てられていて、父は帰省中ひと言も口をきいてくれませんでした。

高校まで校則を破ったこともなく親の言うことを何でも聞いていた私が、いきなり派手な服を着て不良になったと心配されたようです。

この段階では、家族の心配は私本人に対してではありません。私がロリータ服を着ることで「あそこの家の娘さん、頭がおかしくなった」と言われるかもしれない、という世間体を心配したのです。

そのことが透けていたので、私は頑として髪の毛の染め直しはしませんでした。

腹が立ちますよね。世間体ばかり気にして、私のやりたいことをやらせてくれないなんて!別に犯罪でもないんだし…。

でもこれは、初めての反応としてはある程度仕方ありません。住んでいる地域性にもよるでしょう。

 

近所の住民の反応

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ロートレックの家族

 

 

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

1864年にフランスで生まれる。11歳の時に事故で両足の成長が止まってしまう。その後フランス・パリで人気画家として活躍。1901年、36歳で死去。

 

ロートレックの家族

 

ロートレックは、高名なトゥールーズ家の直系の子孫で、とても裕福な家庭環境でした。

 

直系子孫

直接的な親子関係で繋がる系統の事。

 

ロートレックの父親であるアルフォンスは、母親のアデールと結婚するまでは槍騎兵連隊(そうきへいれんたい:槍を持ち馬に乗り戦う兵士の部隊)として活躍し、結婚後は乗馬や鷹狩りに明け暮れていました。

他にもサーカスや仮装なども好み奇抜な人物で有名でした。

 

 

一方、母親のアデールは、アルフォンスとは正反対の性格をした女性でした。控えめで優しく、慎ましやかな女性でした。ロートレックは「聖人のような女性だった」と言っています。

 

 

1868年にロートレックの弟・リシャールが生後すぐに亡くなったことで、アルフォンスとアデールの仲は冷え切ってしまったようです。(ロートレックの生誕は1864年)

 

【コラム】ロートレックの両親

もともとロートレックの父親は自分本位な方で、家族に愛情を注ぐということが少なかったようです。また、父親のアクティブで風変わりな性格とは正反対に母親は慎ましく、読書を趣味とするような大人しい女性でした。

ロートレックの弟が亡くなったことで不仲になってしまった理由は文献などには明記されていませんが、私が想像するに、おそらく父親自身が期待していた子供に恵まれなかったことを母親のせいした結果、不仲になったのではないかと思います。

さらに、その後両親は離婚したそうです。母親は、1883年ロートレックがパリに出てすぐの19歳の時にマルロメの城館を買い取り、そこで静かに暮らしました。マルロメはロートレックにとって帰省する実家となり、ロートレックは最期そこで死を迎えます。

 

父親のアルフォンスは、第一子である男の子のロートレックにかなりの期待を寄せていました。

ロートレックが12歳の誕生日の時に、アルフォンスからプレゼントされた鷹狩りの本には、アルフォンスから直筆で以下のようなメッセージが加えられていました。

「息子よ、忘れないでほしいのだが、大気の中での生活や照りわたる太陽の下での生活だけが健康にふさわしいのだ。

何にせよ、自由を奪われたものは自分を見失い、すみやかに滅んでいくのだ。この小さな鷹狩りの本は、広大な自然の中での生活の素晴らしさをお前に教えることだろう。

そしていつの日か、お前が人生の苦さを味わうとき、何よりも馬が、そしてまた犬が、鷹が、お前の貴重な友となり、世の苦しみを多少なりとも忘れさせてくれるだろう。」

(出典:現代世界美術全集「ロートレック」より)

※改行 弊編集部

 

このようなアルフォンスのメッセージは、ロートレックの今後の人生には忠実に反映されず、むしろロートレックは正反対な人生を送ることになるのでした。

太陽の降り注ぐ大自然や馬、鷹などと触れ合う機会には恵まれず、バーやダンスホール、酒、娼婦たちとの触れ合いが中心となるのでした。

後の1878年、1879年(当時ロートレックは14、15歳)と続けざまに起こった、ロートレックの運命を大きく変えた「偶然の悲劇」とも言える事故は、ロートレック自身だけではなく、アルフォンスやアデールにとっても衝撃なトピックスでした。

 

※1878、1879年のロートレックに起きた事故については次のページで解説!

 

この事故によって、ロートレックは両脚の成長だけが10代のままで止ってしまうのでした。

この事故を機に、アルフォンスは期待していた唯一の一人息子に失望してしまい、ロートレックに目をかけることを止めてしまいました。

 

 

一方で、母親のアデールはロートレックの弟の死後、ロートレックの成長を生きがいとし、より一層彼に愛情を注ぎました。

しかしながら、アデールはロートレックの将来を過剰に不安がって、彼に対して過保護になったり、囲ったりするようなことはしませんでした。むしろ、ロートレックの絵の才能を誰よりも早くに見抜いて、それを育もうとしました。

 

 

ロートレックの生涯にわたって、アデールは経済的な支援をロートレックにし続けたのです。後にロートレックが一人でパリへ出てきて、自由を謳歌できたのも母親のアデールのおかげとも言えます。

さらに、父親のアルフォンスとの関係とは反対に、ロートレックとアデールはとても仲の良い親子でした。

1882年には、パリでホームシックになったロートレックはこのようにアデールへ綴っています。

「おかあさんへ。おかあさんは腕の骨でも折ったのですか?それともちび助の存在を忘れてしまったのですか?

二言三言でいいので、僕に今の様子を知らせてください。こちらは万事順調です。

一生懸命勉強をしています。くれぐれもよろしくお願いします。キスを送ります。それでは。」

(出典:創元社「ロートレック―世紀の闇を照らす」)

※改行 弊編集部

 

アデールはもちろん、ロートレックも母親をとても愛していました。お互いに会えないときは、このように手紙のやりとりを交わしていました。

ロートレックが父親に手紙を書くときは、自分の身について何か大きな決断をする時に意見や承認をもらうときだけだったそうです。

母親のアデールもロートレックも互いに、父親のアルフォンスとの溝が深まらなかっただけに、生涯にわたって2人の絆は固く結ばれました。

 

▼ロートレックが描いた母親アデールが掲載されています(スペイン語サイト)

http://treclau.blogspot.com/2009/07/adele-tapie-de-celeyran-condesa-de.html

 

【著者に聞きました!】母親の影響

Q.(Webon編集部) 母親アデールの影響を受けた事をロートレックの作品を観ていて感じることはありますか?

A.(HARUKA) 個々の作品の作風や題材から母親の影響を感じることはありませんが、母親がいたからこそロートレックが画家としてのびのびと過ごせたのだと思います。ロートレックは、パリに出てきてから、自分の状況が良い時も悪い時も定期的に母親への手紙を欠かしませんでした。

ロートレックが母親へ宛てた手紙からは、別々に暮らしていてもお互いに想い合っていた様子が感じ取られ、ロートレックの心の中にはいつでも母親が存在していたように感じます。

 

以上、「ロートレックの家族」でした。次のページではロートレックに起きた1878年の悲劇について解説をしていきます。

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