少年隊の功績 ~ジャニーズ随一のエンターテインメント集団~

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ジャニーズファン歴25年で『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?』の著者であるシン氏が90年代ジャニーズという存在を紐解く!「少年隊」「光GENJI」が築いたジャニーズの礎とは?「SMAP」「V6」「TOKIO」「KinKi Kids」の軌跡とおすすめ楽曲をジャニーズと共に青春を過ごしてきた筆者視点で語る!

『90年代ジャニーズ入門~ファン歴25年が語る~』(全15ページ)はこちらから!

著者:シン アキコ

30代前半女性。ジャニーズファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛している。著書『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?: J-POP愛して25年の著者がヒット曲を徹底分析 (Webonブックス) 』

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1980年代後半から1990年代にかけてのジャニーズの活躍はめざましいものがありました。

この章ではジャニーズ人気の礎を築いた「少年隊」「光GENJI」について解説します。

このページでは「少年隊」について解説します。

 

ジャニーズ随一のエンターテインメント集団・少年隊

メンバー ・錦織一清(1965年5月22日生まれ)通称:ニッキ 写真左
・植草克秀(1966年7月24日生まれ)通称:カッちゃん 写真中央
・東山紀之(1966年9月30日)通称:ヒガシ 写真右
デビュー 1985年「仮面舞踏会」でデビュー
ジャニーズ最長の活動歴のグループ。最大のヒットソングは「仮面舞踏会」で、1986年シングル売上の3位。2枚目のシングル「デカメロン伝説」が1987年シングル売上26位。6枚目シングル「君だけに」は1987年シングル売上10位。1986年に初演された舞台「PLAYZONE」は少年隊の代名詞とも言える。

 

1985年に「仮面舞踏会」でデビューした少年隊。

メンバーである東山紀之に「出会ったときからすでに完成されていた天才」と言わしめる稀代のエンターテイナー・ニッキ。

ジャニー喜多川社長自らスカウトしたという甘いマスクに秘めたストイックさで「とにかく練習」を貫くヒガシ。

3人のなかではいじられキャラながら、いつも一番のアイドルスマイルを見せてくれるカッちゃん。

今でも仲の良い、バランスのとれた3人組は、しっかりとオチのある軽快なトークも魅力のひとつ。

さんざん話して笑いをかっさらったかと思いきや、いざ歌い始めるとガラッと表情を変え、スタジオをあっという間にシアターに変えてしまうのです。

 

並外れた身体能力

 

なんといっても少年隊の特徴は、全員が並外れた身体能力の持ち主であること。

当時は生演奏、生歌が当たり前の時代。

激しいダンスとアクロバットを行いながら歌い上げるのはもちろんのこと、マイクを高く放り投げてキャッチするニッキおなじみのパフォーマンスや、カメラから走って逃げてフレームアウトするという遊び(もちろんキメはばっちりキメる)までしていたというのだから驚きです。

歌って踊れるアイドルはジャニーズ以外にもたくさんいます。

今も昔も。

しかしこれほどまでに完成度の高い本格的なパフォーマンスをテレビで魅せることができるアイドルは、少年隊以前も以降も存在しないと思うのです。

彼らの活躍があってこそ「ジャニーズ」が世間に一目置かれる存在になった。そう言っても過言ではないと思います。

彼らに憧れてジャニーズを志した少年や、「姉がヒガシのファンで履歴書を送った」とジャニーズのオーディションを受けたジャニーズタレントもいます。

こうして未来につながっていくのがまた、ジャニーズの不思議な縁というところでしょうか。

 

「解散」という定説を破る存在

 

2006年の「想 SOH/自分で選んだ明日をゆく」以降、少年隊としての楽曲リリースや3人での活動がないのはやはり寂しいところ。

しかし、いくつになってもグループであり続ける姿は、全ジャニーズファンの希望です。

「アイドルはある程度の年齢になれば解散しそれぞれの道をゆくべき」

そんな定説を破り続ける少年隊が好きです。

それぞれが、外部で高い評価を受け、活躍し羽ばたいていても、あくまで“少年隊の”錦織一清であり、植草克秀であり、東山紀之である。

それは、ファンにとってはなによりも重要なことなのですから。

 

次のページではそんな「少年隊」を知る上で聴いていただきたいおすすめの名曲をご紹介します。

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初心者におすすめの少年隊の名曲9選

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ジャニーズファン歴25年で『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?』の著者であるシン氏が90年代ジャニーズという存在を紐解く!「少年隊」「光GENJI」が築いたジャニーズの礎とは?「SMAP」「V6」「TOKIO」「KinKi Kids」の軌跡とおすすめ楽曲をジャニーズと共に青春を過ごしてきた筆者視点で語る!

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前ページではジャニーズブームの礎を築いた「少年隊」について解説をいたしましたが、このページではまずは聴いてほしい「少年隊」のおすすめの名曲を紹介します。

 

初心者におすすめの少年隊の名曲9選

「仮面舞踏会」作詞:ちあき哲也 作曲:筒美京平

 

「仮面舞踏会」は昭和を代表するコレオグラファー(振付師)・西条満の代表作。

西条満といえば、フォーリーブス「ブルドッグ」のゴムベルトを用いたアクションなど、ジャニーズアイドルに斬新な振り付けを与えた天才振付師。

 

「仮面舞踏会」におけるダンスの特徴としてまず挙げられるのは、歌前のポージングから歌終わりのキメまで、世界観が完璧に統一されていること。

少年隊の3人がマスクを投げ捨てるシーンから、一音一音もれなくポーズをはめ込んでいる。

「これが昭和の日本なのか」と驚くほど複雑なことをやってのけている。

腰振りや、マイクスタンドを蹴り飛ばすアクション、目まぐるしく変わるフォーメーション、3人そろってのバック宙…たった1曲なのに、話題になった振りを挙げればキリがない。歌詞と曲とコレオ(振付)がこれ以上なくマッチした楽曲。

この楽曲を完璧にパフォーマンスしてみせた少年隊には「スゴイ」の一言しかない。

デビュー曲に懸ける情熱が伝わってくる。せひ目で見て楽しんでほしい。

 

「デカメロン伝説」作詞:秋元康 作曲:筒美京平

 

「デカメロン伝説」も目で見て楽しい1曲。

相当難しい振り付けをなんでもない顔でこなす姿にはもはや脱帽。

タイトルは中世イタリアの創作詩「デカメロン(十日物語)」に由来しており、歌詞のなかにもそれを示唆するワードがある。

少年隊の楽曲がもつエキゾチシズムを代表する1曲。

イントロの「ワカチコ(実際は「ワカチコン」)」というフレーズは、錦織の提案で吹き込まれたもの。

 

「君だけに」作詞:康珍化 作曲:筒美京平

 

甘い言葉を紡がせれば右に出る者はいない、康珍化作詞による極上のラブソング。

イントロ・アウトロで指を鳴らす振り付けが印象的だった。

バラードだからこそ魅せることのできる、しなやかで表情のあるダンス・歌声がみどころ。

ソロパートが多いため、3人の声を聞き分けるにはもってこいの楽曲。

舞台や後輩アイドルのコンサートではアップテンポにアレンジして歌われることもある。

 

「Let’s Fight」作詞:宮下智 作曲:宮下智

 

「Let’s Fight」はアルバム『PLAYZONE’89 Again』に収録。後輩アイドルにも歌い継がれ、ジャニーズファンにはおなじみ。

男らしさあふれるエネルギッシュな楽曲だが、作詞作曲は女性ソングライター宮下智がつとめている。

宮下はジャニーズへの楽曲提供が多く、2019年現在のデビュー組においてもっとも若手であるKing & Princeにも楽曲を提供するなど、幅広い世代に愛されている。

 

 

「まいったネ、今夜」作詞:宮下智 作曲:宮下智

 

「まいったネ、今夜」は「ザ・ベストテン」のスタジオを一瞬にしてシアターに変えた1曲。

指先まで表情をもつロマンチックで丁寧なダンスに注目してほしい。

「Let’s Fight」同様、宮下智による作品であり、少年隊の「まいったネ、今夜」や田原俊彦「チャールストンにはまだ早い」など宮下によるジャズテイストの人気ナンバーはジャニーズファンの間で人気が高い。

 

「PGF」作詞:及川眠子 作曲:井上ヨシマサ

 

「PGF」は20枚目のシングル「Oh!」のB面。

PGFとは「Positive Girl Friend」の頭文字をとったもの。

いわゆるジャニーズジュニア黄金期(95年~)に重なるリリースということもあり、当時のジャニーズジュニアたちにカバーされジャニーズ定番ソングになった。

 

「湾岸スキーヤー」作詞:秋元康・山下達郎・ODAYALANE  作曲:山下達郎・ODAYALANE

 

「湾岸スキーヤー」は山下達郎の楽曲をカバーしたシングル。

フジテレビ系列の長野オリンピック放送テーマソングであり、当時は耳にする機会も多かった。

「湾岸スキーヤー」については、なによりも有名なエピソードとしてミュージックステーションにおけるJ-FRIENDS(TOKIO、V6、KinKi Kidsによる阪神淡路大震災へのチャリティー活動を目的とした期間限定ユニット)との共演が挙げられる。

当時すでに人気アイドルだった3グループが少年隊のバックダンサーをつとめる姿はファンにとっては斬新なものであり、J-FRIENDSの一部メンバーにとっては懐かしさや憧れを胸に秘めた夢の共演。

ジャニーズファンの間では今も伝説として語り継がれている。

 

「情熱の一夜」作詞:松井五郎 作曲:馬飼野康二

 

活躍の中心をミュージカルに置いていた少年隊が、一般層にもその健在ぶりを見せつけた一曲。

パフォーマンス力の高さはそのままに、大人の魅力でファンを魅了した。

タイトルの通り、情熱的かつキャッチーなメロディが耳に楽しい。

作詞作曲はジャニーズおなじみのゴールデンコンビである松井五郎、馬飼野康二によるもの。

 

「君がいたころ」作詞:Platina 作曲:馬飼野康二

 

東山紀之主演ドラマ「お前の諭吉が泣いている」主題歌。

ちなみに前作「ロマンチックタイム」は自身の冠番組「少年隊夢」の主題歌に、98年の人気バラード「愛と沈黙」は堂本光一主演ドラマ「ハルモニア」の主題歌にと、当時の少年隊の曲は主題歌への起用が多かった。

以後5年半シングル発表はなく、続く2006年の「想 SOH」以降2019年までシングルリリースはない。次作が待たれる。

 

さてここまでは90年代ジャニーズの礎を築いた「少年隊」について解説してきましたが、次のページでは「光GENJI」について解説していきます。

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光GENJIの功績 ~社会現象を巻き起こした最後のビッグアイドル~

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1980年代後半から1990年代にかけてのジャニーズの活躍にはめざましいものがあります。

この章ではジャニーズの人気の礎を築いた「少年隊」「光GENJI」について解説しておきたいと思います。

このページでは「光GENJI」について解説します。

 

社会現象を巻き起こした最後のビッグアイドル・光GENJI

メンバー 【光】
・内海光司(1968年1月11日生まれ)
・大沢樹生 (1969年4月20日生まれ)
【GENJI】

・諸星和己(1970年8月12日生まれ)
・佐藤寛之(1970年11月2日生まれ)
・山本淳一(1972年2月28日生まれ)
・赤坂晃(1973年5月8日生まれ)
・佐藤敦啓(1973年8月30日生まれ)
【GENJI 元メンバー】
・田代秀高
デビュー 1987年「STAR LIGHT」でレコードデビュー
「パラダイス銀河」「ガラスの十代」「Diamondハリケーン」で1988年オリコン年間シングル売上1位から3位までを独占。1988年「パラダイス銀河」で第30回日本レコード大賞を受賞。

 

「光GENJI」といえば、当時を知らない世代であってもその名前を耳にしたことがあるでしょう。

黄色い声援のなかをローラースケートで駆け巡る、まさに流星のような7人組。

ローラースケートを履いたままのバック転や高い跳躍など、ローラースケートの概念もダンスの概念もぶち破った存在といえます。

光GENJIの当時の人気は凄まじいもので

「メンバーが自宅を出て学校に行くまでどんどんファンがついてくるため集団登校のようになっていた」

「ローラースケートがバカ売れした」

「あまりの人気ぶりに、未成年メンバーが20時以降の生放送に出演できるように『労働基準法』が変わった」

といったエピソードが多数あります。

 

「光」と「GENJI」からなる「光GENJI」

 

「光GENJI」は、

元イーグルスとして活動していた「光」内海光司、大沢樹生の年長組と、

年下組である「GENJI」諸星克己、山本淳一、佐藤寛之、赤坂晃、佐藤敬啓(当時表記)で結成。

後年には、諸星以外のGENJIメンバーからなる「SAY’S」がCDデビューを果たすなど、7人いるからこそのフォーメーションや組み合わせが楽しめるグループでもありました。

 

光GENJIが、最年少である佐藤(啓)のために作られたグループであることは有名な話。デビュー曲では、まだ表情に幼さの残る佐藤(啓)がセンターをとっています。

両端を内海、大沢の長身・年長・先輩コンビが務めることで全体が締まる。

「光」はとにかく見栄えのよいコンビでした。

振り付け通りにキッチリ踊る内海と、感情的にアドリブを加えて踊る大沢という本来かみ合わないはずのシンメトリーでしたが、この2人が両端・前方にいるフォーメーションは安心感がありました。

これぞ「光GENJI」という感じがします。

 

光GENJIの顔「諸星」

 

もっとも元気がよくおしゃべりで、無茶なパフォーマンスも全開のアイドルスマイルでやりきるかーくんこと諸星は、セカンドシングル「ガラスの十代」以降センターポジションを務めることになり光GENJIの顔となります。

派手なヘアアクセサリーやダンスにおける大きなアクション、そしてどんなときでも笑顔を欠かさない諸星は、誰よりも目立つ存在でした。

光GENJIは、ローラーを履いてのパフォーマンス力の高さや衣装の早替えなど観るものを飽きさせないスキルをきわめていたほか、なによりもその「笑顔」が印象的です。

諸星自身ものちに「自分たちが最後のアイドル」と語っていたように、多忙をきわめる毎日においても元気と笑顔を欠かさず、いつも全力でやりきる。

ちょっとカッコ悪いことさえ、全力でやり切るからカッコいい。光GENJIはそういうアイドルでした。

 

最年少の「アッくん」

 

当時最年少で、メンバーからいじられてはむくれていたアッくんこと佐藤アツヒロ(現在表記)は、いまやジャニーズ事務所では大先輩。

舞台の仕事をメインに置きながらも、ときおり後輩たちとパフォーマンスを披露しています。

ローラースケートを履いて自由自在に走り、踊る姿は当時よりさらにブラッシュアップ。

“お兄さんになってしまったアッくん”になんだか寂しい気持ちを抱きながらも、内海光司と佐藤アツヒロがいまもジャニーズ事務所に在籍していること、カウントダウンコンサートやジャニーズ舞台でアッくんがローラーを履いてくれることは「いつかまた光GENJIを」というファンの生命線でもあるような気がします。

 

現在の光GENJI

 

光GENJIメンバーは、いまもそれぞれの場所で光GENJIの楽曲を歌い継いでいます。

目にもとまらぬ早さで過ぎていった怒涛の8年間と、解散。

ファンの方はよくない噂も耳にしたでしょうが、彼らが彼らなりに「光GENJI」という想い出、青春を、大切に大切に胸の奥にしまっていることでしょう。

 

7人にしかない「光GENJI」という青春。

あの輝かしい時間を、満員のアリーナを、割れんばかりの声援を、知っているのは7人だけです。

簡単に想い出の箱を開きたくないと言ったメンバーの言葉も、分かるような気がします。

解散していなければデビュー30周年を迎えているはずの2016年には「メンバー7人で会っている」という嬉しい言葉が聞かれました。

今も光GENJIを待っているファンはたくさんいます。いつか必ずまた、その姿を見せてほしいものです。

 

次のページではそんな「光GENJI」を知る上で聴いていただきたいおすすめの名曲をご紹介します。

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初心者におすすめの光GENJIの名曲12選

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前ページではジャニーズブームの礎を築いた「光GENJI」について解説をいたしましたが、このページではまずは聴いてほしい「光GENJI」のおすすめの名曲を紹介します。

※「光GENJISUPER5」の楽曲は除いてご紹介。「光GENJISUPER5」は「光GENJI」のメンバー大沢樹生・佐藤寛之が脱退した後に、残ったメンバー5人(内海光司・諸星和己・山本淳一・赤坂晃・佐藤敦啓)で活動する際に使っていたグループ名。

 

初心者におすすめの光GENJIの名曲12選

「ガラスの十代」作詞:飛鳥涼 作曲:飛鳥涼

 

「ガラスの十代」は2ndシングルながら、アクロバットや衣装の早替えなどジャニーズおよび光GENJIの持つスキルをふんだんに取りこんだ完成度の高いパフォーマンスに注目の1曲。

カメラワークや歌割り(=誰がどこを歌うかなどを決めたもの)をうまく利用し、観客を飽きさせることなくローラースケートの着脱や早替えを行っていた。

楽曲には随所にガラスを思わせる破裂音が用いられている。

 

光GENJI SUPER5のラストコンサートでは赤坂晃のソロコーナーで披露。

オリジナルアレンジと振り付けでファンを魅了した。

こちらのアレンジも実に良い。

「ガラスの十代」は光GENJIの代表曲として、今も後輩アイドルたちに歌い継がれている。

 

「パラダイス銀河」作詞:飛鳥涼 作曲:飛鳥涼

 

「パラダイス銀河」も飛鳥涼による楽曲。

光GENJIのもつ明るさ、若さ、パワーをすべてつめこんだ、当時の彼らが歌うことで完成したともいえる楽曲。

光GENJIが持つ、圧倒的な無敵感を感じることができる。

サビにおける、7人で円になってのローラースケート滑走は、ローラースケートという武器をめいっぱい活用した画期的なパフォーマンス。

疾走感が楽曲の良さをさらに引き立てる。

おもちゃ箱のように次から次へと展開していく間奏も見どころ・聴きどころ。

 

「Graduation」作詞:飛鳥涼 作曲:CHAGE

 

「Graduation」は2ndシングル「ガラスの十代」カップリング。

コンサート本編のラストを飾る曲としても定番。

光GENJI SUPER5のラストコンサートでも本編最後に歌われた。

 

また、ジャニーズジュニア黄金期における、初のジュニア単独コンサートでも本編最後は「Graduation」が用いられた。

TOKIO(城島、山口、国分)V6(坂本、長野、井ノ原)からなる「平家派」が番組で披露したことで人気が再燃。

※平家派・・・光GENJI『剣の舞』のバックダンサーグループであり、「スケートボーイズ」出身のメンバーを中心に結成されたジャニーズジュニア内グループです。

 

「Hurry Up」作詞:飛鳥涼 作曲:飛鳥涼

 

「Hurry Up」は年下組であるGENJIが歌唱。

デビュー前のKinKi KidsもNHKの音楽番組「アイドルオンステージ」で披露していた。

 

少年の声が良く映える明るい楽曲ながら、部分的に取り入れられたマイナーコードが甘酸っぱさや切なさを演出している。

電車で一目ぼれした女の子を想う恋の歌であるが、歌詞のリアリティ(共感)とファンタジーのバランスが絶妙。

 

デビュー曲「STAR LIGHT」をはじめとし、光GENJI初期のヒット曲には飛鳥涼の存在が欠かせない。

とくにデビュー曲「STAR LIGHT」から「ガラスの十代」「パラダイス銀河」の3曲続けてのヒットは光GENJIブームを決定づけた。

 

「太陽がいっぱい」作詞:大江千里 作曲:大江千里

 

「太陽がいっぱい」は「格好悪いふられ方」で知られるシンガーソングライター大江千里が作詞作曲を担当した、美しい起承転結が印象的な楽曲。

リリースされた1989年の賞レースでいずれも大賞を受賞し、レコード大賞では金賞を受賞した光GENJIの代表曲でもある。

「太陽がいっぱい」のフレーズで、身体を傾け手を伸ばすポーズも流行した。

サビのワンフレーズにローラースケートで歩く振り付けがある。

ムーンウォークというと大げさかもしれないが、無重力空間を泳いでいるかのような目の錯覚を起こす。

歌詞にもちょうど「泳いで」というワードが用いられているからなおさらだ。

機会があればぜひ見てほしい。

 

「ヒットパレード・ボーイ」作詞:森若香織 作曲:森若香織

 

「ヒットパレード・ボーイ」は山本淳一がソロで歌った曲。

歌詞と楽曲、山本のハイトーンや歌唱が非常にマッチしている。

アイドルという立場である少年が歌うことで完成する楽曲。

近年あまり歌われていないが、ぜひ現ジャニーズにも歌ってほしいと願う。

 

「Rabbit Train」作詞:三浦徳子 作曲:佐藤準

 

「Rabbit Train」はジャニーズソングのファンタジー楽曲担当とも言える三浦徳子による作詞。

三浦氏は現在もSexy Zoneなど若い世代に独特の世界観を持つ歌詞を提供している。

「Rabbit Train」も、ジャニーズが歌い継いでいる楽曲のひとつ。

デビュー前のKinKi Kidsやタッキー&翼、嵐の一部メンバーも歌ってきた。

 

歌詞は「どういうこと?」と思わずこぼしてしまいそうになるが、なぜか耳に残って離れないフレーズを書くのが三浦徳子である。

MVも個性的な世界観をもっており、その世界観になかなか理解しがたい点がある。

楽曲は気だるげな雰囲気があり、実は非常に凝ったもの。

随所に取り込まれたピアノのプレイは必聴。

 

「CO CO RO」作詞:森浩美  作曲:馬飼野康二

 

「CO CO RO」はSMAPへ多数の歌詞を提供している森浩美が作詞。

作曲はジャニーズソングではおなじみ馬飼野康二。

パフォーマンス面では7人が組む複雑なフォーメーションが見どころ。

くるくると隊形を変化させていくのだが、誰ひとりとして足元や後方を見ることなくカメラに笑顔を向け続ける。

想像を絶する練習量と互いの信頼がなければ成し得ない技だ。

 

「さよならの情熱」作詞:三浦徳子 作曲:土橋雅樹

 

「さよならの情熱」もジャニーズソングではおなじみ三浦徳子による作詞。

「好きな女性が恋人に傷つけられている姿を見ていられない、僕のほうにおいでよ」という募る想いを描いた楽曲だが、「さよならの情熱」というタイトルの印象が強いためかコンサートの後半で使用されることが多い。

大沢・佐藤(寛)の卒業コンサートでも歌われた。

好きな女性への一途な想いがまっすぐに伝わる名曲だが、三浦徳子が作詞をしていることもあってか、この曲も程よいファンタジーテイストを残しており、リアルすぎないのが良い。

 

「三日月の夜に…」作詞:佐藤敦啓 作曲:もりくん

 

「三日月の夜に…」は最年少である佐藤敦啓作詞によるナンバー。

スタンドマイクを持ち自由自在に走り回り、歌うメンバーの姿が印象的。

全員にソロパートがある。

後期の光GENJIらしい、少年から男性へと脱皮した彼らの歌唱や表情が楽しめる。

 

「勇気100%」作詞:松井五郎 作曲:馬飼野康二

 

「勇気100%」は光GENJI後期の大ヒット曲。

人気アニメ「忍たま乱太郎」の主題歌として起用され、ジャニーズの後輩グループに多数カバーされている。

B面の「微笑みをあずけて」は、勇気100%をバラードアレンジしたもの(歌詞も異なる)。

ジャニーズソングおなじみのゴールデンコンビによる楽曲であり、松井五郎は光GENJI以降多数のジャニーズアイドルへ歌詞提供を行っている。

「僕たちが持てる輝き 永遠に忘れないでね」という歌詞には、光GENJIファンならぐっとこみあげるものがあるだろう。

 

「Meet Me」 作詞:タケカワユキヒデ 作曲:タケカワユキヒデ

 

「Meet Me」は、タケカワユキヒデらしい美しい歌詞が印象的な楽曲。

楽曲そのものは明るい雰囲気をもっているが、コンサート終盤で歌われることが多い点や「バイバイ」を多用した切ない歌詞が、光GENJI後期や解散を思い出させる。

コンサートではメンバーが会場中を所せましと走り回り、ファンを喜ばせた。

 

さてここまでは90年代ジャニーズの礎を築いた「少年隊」「光GENJI」について解説してきましたが、次のページではジャニーズの礎を築いたもう一つのグループ「男闘呼組」のおすすめの名曲をご紹介します。

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90年代ジャニーズの魅力を伝えたい理由

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90年代ジャニーズの魅力を伝えたい理由

 

私には2つの疑問があります。

なぜ日本には「ジャニーズファン」ということが恥ずかしいことであるような、隠すべきことであるような風潮があるのでしょうか。

あれだけのヒット曲を持ち、ミリオンセラーを売り上げ、社会現象までも巻き起こしたジャニーズが、なぜひとつの音楽ジャンルとして認められていないのでしょうか。

かくいう私も、ジャニーズファンであることを公にしてこなかった一人です。

 

あくまで個人的見解ではありますが、世間の風潮ではジャニーズファンに対して偏見を持っている方もいると思います。

「ジャニーズファン=顔ファン、イケメン好きという偏見」
「音楽番組の番協にみる黄色い声援=歌を聴いていない、マナーがないという偏見(番協はあくまで「協力」であり、タレントのパフォーマンスを盛り上げるため、事務所の指示のもと行うもの。事前に集合し、振り付けや合いの手、声援の練習を行います)」
「世間的には『ジャニーズは音楽じゃない』という認識がある」

このようなイメージから、なかなかジャニーズファンであると公にできない方も少なくないはずです。

 

私も「好きな音楽は?」と問われたとき「ジャニーズ」だとか「光GENJI」だとか「KinKi Kids」だと答えることはありませんでした。

しかし、ふと思ったのです。本当に、ふと。

ジャニーズファンであることの、なにが恥ずかしいのだろうかと。

ジャニーズはカッコイイ。顔だけじゃない。音楽も、パフォーマンスも、すべてカッコイイ。だから好き。それの何が悪い。何が恥ずかしいのだろうかと。

「ジャニーズを見つけた自分を誇れないことのほうが恥ずかしい」

そう気付いたとき、ジャニーズの素晴らしさを伝えたい、分かり合いたい、そういった衝動に駆られました。

そしてライターとして、音楽を愛する者として、ジャニーズの音楽の魅力をぜひ伝えたいと思ったのです。

なかでも80~90年代はジャニーズが著しく活躍、そして飛躍を果たした「黄金時代」と呼べるでしょう。

そして、90年代は私が青春を過ごした時期であり、リアルタイムで彼らの活躍を目の当たりにしてきました。

そこで今回は、音楽的な視点を交えつつ90年代ジャニーズの魅力をひも解いていきます。「ジャニーズ」という文化や楽曲の魅力を知れば、ジャニーズをもっと好きになることでしょう。

 

まずおさえるべきは「デビュー曲」

 

誰もが知るジャニーズのヒット曲、知る人ぞ知る隠れた名曲、ジャニーズの音楽の裏にはたくさんの著名な作家の存在があります。

とくにそれぞれのデビュー曲は、ジャニーズを知るにはまずおさえるべき彼らの象徴的存在です。

思い出してみてください。

もちろん過去の映像でもかまいません。

 

きっと誰の想い出にも「仮面舞踏会」でバック転を決める少年隊、

ローラースケートで「STAR RIGHT」を舞い踊る光GENJI、

カメラににらみをきかせ「DAYBREAK」を鳴らす男闘呼組の姿があることでしょう。

 

音楽番組氷河期にデビューしたSMAPの「Can’t Stop!! -LOVING-」はどうでしょう。

国民的スターに登り詰めたSMAPの野心とプロ根性は彼らの魅力であり、恵まれなかった不遇のデビューもいつしか伝説に変えてしまいました。

本格派のバンドスタイルでデビューしたTOKIOの「LOVE YOU ONLY」はフジテレビ系アニメ「ツヨシしっかりしなさい」の主題歌にも起用され、老若男女問わず愛されるTOKIOに相応しいキャッチーな曲。

いわゆる「バレーボールデビュー」の先駆けとなったV6の顔ぶれには、当時のジャニーズファンはみな驚いたはず。

※バレーボールデビュー…「ワールドカップバレー」のスペシャルサポーターとしてジャニーズの新グループが結成され、デビュー曲が大会テーマソングになるという流れはジャニーズファンにおいて四年に一度のおきまりとなっていた時期がありました。

流行していたユーロビートに乗せたダンサブルな「MUSIC FOR THE PEOPLE」は、今も変わらぬダンスとアクロバットでファンを楽しませてくれる彼らの代名詞といえます。

当時、日本中の女の子が恋をしたKinKi Kidsのデビューは、約5年ものあいだ今か今かと待ちわびたもの。

そして山下達郎&松本隆による名曲「硝子の少年」と『A album』の同時発売という異例の形で期待に応えました。

彼らは現在に至るまでシングルチャート初登場1位のギネス記録を更新し続け、「あのころの女の子たち」はずっと彼らを見つめ続けています。

 

このWebonではそれぞれのデビュー曲についてもご紹介していきます。

また各グループの色…ファンタジック、等身大、アクロバティック、アーティスティック…彼ら自身の輝きを最大限に際立たせる曲、コレオ、演出。それらを作り上げた影の存在についても触れていきたいと思います。

 

ジャニーズには歴史、美学、ロマンがある

 

ジャニーズは、世界にたったひとつ日本にしかない文化です。

「ジャニー喜多川」という若き青年が見た夢を、同じくショービジネスを志す若者たちが未来へと繋いでいく。

そこには歴史があり、美学があり、ロマンがある。

ジャニーズの世界で生きることを決めた少年たちは、レッスンに舞台にコンサートにと、日々エンターテインメント道をまい進していきます。

 

普通の男の子としての青春はそこにはないでしょう。

でも、ジャニーズだからこそ見える景色がきっとあるのだと思いますし、そうであってほしいと願うファン心もあります。

彼らの青春が、光り輝く照明とペンライトの波で彩られますようにと。誰よりも幸せな景色がその目に映りますようにと願っています。

 

そして私はいくつになっても、彼らを輝かせるペンライトのひとつでありたい。

これまでの人生で、さまざまなジャニーズグループのコンサートを鑑賞しました。

どれをとっても忘れることのない、私の青春をたしかに輝かせてくれるものです。

彼らが歌い、踊り、駆けまわり、笑って泣いた。

私は、彼らの名を呼び、胸をときめかせ、笑って泣いた。

それが私の、私たちの青春でした。おこがましくはあるけれど、彼らと私たちの宝物のような青春。

そんな時間が、季節が、彼らにとっても生涯すばらしい記憶でありますようにと願っています。

ところどころ、想い出話の蛇足があるかもしれませんがどうぞ温かい目でお付き合いください。

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TOKIOの軌跡

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ジャニーズファン歴25年で『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?』の著者であるシン氏が90年代ジャニーズという存在を紐解く!「少年隊」「光GENJI」が築いたジャニーズの礎とは?「SMAP」「V6」「TOKIO」「KinKi Kids」の軌跡とおすすめ楽曲をジャニーズと共に青春を過ごしてきた筆者視点で語る!

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著者:シン アキコ

30代前半女性。ジャニーズファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛している。著書『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?: J-POP愛して25年の著者がヒット曲を徹底分析 (Webonブックス) 』

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この章では90年代活躍したジャニーズグループ「SMAP」「TOKIO」「V6」「KinKi Kids」の軌跡と楽曲を紹介します。

このページからは「TOKIO」の軌跡と楽曲を紹介していきます。

 

「TOKIO」90年代簡易年表

年月 出来事
1994年9月 「LOVE YOU ONLY」でCDデビュー
1994年12月 「第45回NHK紅白歌合戦」出場
1995年4月 3枚目シングル「うわさのキッス」リリース。アニメ「キテレツ大百科」のED。オリコン2位。
1995年11月 冠番組「鉄腕!DASH!!」スタート
1997年2月 11枚目シングル「フラれて元気」が松岡昌宏主演ドラマ「サイコメトラーEIJI」の主題歌に。オリコン5位。
1997年5月 12枚目シングル「Julia」が国分太一主演ドラマ「せいぎのみかた」のオープニングに。オリコン10位。
1998年5月 14枚目シングル「Love & Peace」が松岡昌宏主演ドラマ「LOVE&PEACE」の主題歌に。オリコン9位。
1999年11月 18作目シングル「愛の嵐」が松岡昌宏主演ドラマ「サイコメトラーEIJI2」の主題歌に。オリコン10位。
2001年5月 22枚目シングル「メッセージ」でオリコン初の1位獲得。

 

TOKIOの軌跡

デビュー

 

「ダテに待たせたワケじゃない」という、期待いっぱいのキャッチフレーズを背負い、1994年「LOVE YOU ONLY」でデビューしたTOKIO。

男闘呼組以来、ジャニーズでは2組目のバンドスタイルをとるアイドルとして注目を浴びました。

91年にジャニーズ事務所に入所した長瀬智也を除く4人は、少年隊のバックダンサーや光GENJIのバックバンドの経験を豊富に積んでおり、今で言うジャニーズジュニアにおいてはベテラン的存在でした。

デビュー曲の「LOVE YOU ONLY」は2019年現在においてもTOKIO最大の52万枚の売上を誇っています。

いきなりアニメの主題歌に起用されたかと思うと、デビューからわずか2ヶ月で日本武道館公演を、年末には紅白歌合戦初出場を果たしました。

 

冠番組「鉄腕!DASH!!」

 

翌1995年には、冠番組「鉄腕!DASH!!」(のちに改名。現在の「ザ!鉄腕!DASH!!」)がスタート。

深夜枠の30分番組から始まり、じわじわと視聴率が上昇、1998年には日曜のゴールデン枠へと進出しました。

定番企画だった電車とのリレー対決や「〇〇でどこまで行けるか」シリーズといったチャレンジ企画に、NGなしの体当たりで挑むTOKIOは「日本一身体を張るアイドル」として男女問わず人気を獲得していきます。

番組を通し、5人はそれぞれの個性を視聴者に強く印象づけました。

まだ20代ながら、おじさんキャラを世間に定着させたリーダーこと城島茂。

肉体派でスポーツ万能・兄貴肌の山口達也。

バラエティやドラマはもちろん、ダンスに歌にと器用タイプの国分太一は、ジャニー喜多川社長からも「逸材」と評された存在です。

料理上手でなんでも器用、ジャニーズらしくないのにジャニーズへの憧れや愛は人一倍強い松岡昌弘。

抜群のスタイルと美しい容姿からは想像もつかない天然ボケっぷりを世間に知られることとなった長瀬智也。

彼らの魅力は、バラエティで見せる「素の姿」と、ひとたび楽器を持てばガラリと表情が変わるパフォーマンスとのギャップです。

にぎやかな5人で構成されたバンドは、ジャニーズにJ-POP界にと新たな風を吹き込んでいきます。

 

メンバー主演のドラマ主題歌が軒並みヒット

 

TOKIOの楽曲は、メンバー主演のドラマ主題歌に起用される機会に多く恵まれました。

松岡・長瀬のふたりはとくに、これまでのジャニーズとはひと味違う、長身でワイルドな「いかにもヒーロー」という役柄を演じられる存在。

一方でコミカルな演技にも定評があり、90年代から2000年代初頭にかけてはまさにひっぱりだこの状態でした。

いまでも彼らに演技の仕事は絶えませんね。

コメディからシリアスまで様々なドラマの主演に抜擢され、そのほとんどの主題歌をTOKIOが担当。

▼TOKIOの主演ドラマの主題歌例

年月 ドラマ
1997年2月 「フラれて元気」 松岡昌宏主演ドラマ「サイコメトラーEIJI」主題歌
1997年5月 「Julia」 国分太一主演ドラマ「せいぎのみかた」オープニング
1998年5月 「Love & Peace」 松岡昌宏主演ドラマ「LOVE&PEACE」主題歌
1999年11月 「愛の嵐」 松岡昌宏主演ドラマ「サイコメトラーEIJI2」主題歌
2001年10月 「DR」 長瀬智也主演ドラマ「ハンドク!!!」主題歌

 

彼らの楽曲はあらゆる世代の視聴者にとって耳なじみのあるものになりました。

それゆえ一般層にも知られている曲が多いのですが、意外にもオリコンチャートで初登場1位を獲得したのは2001年の「メッセージ」が初めてのことでした。

 

TOKIOの音楽と魅力

 

デビュー曲「LOVE YOU ONLY」以降はスマッシュヒットが続きましたが、TOKIOにとっての大ヒット曲・代表曲は何かと問われれば正直、難しいところもあります。

チャート順位だけを見れば、他のグループほど目を見張るような記録には恵まれていないという見方もあるでしょう。

しかし、確実に記憶には残っている。

当時、毎週楽しみにしていたドラマやバラエティとともに、多くの人のなかでTOKIOの楽曲は生きている。

現在も活躍するジャニーズのグループにおいてTOKIOは、楽曲にしろ個人にしろ、ジャニーズファン以外にもっとも受け入れられ、愛されている存在といえるかもしれません。

 

楽曲の特徴

 

TOKIOの楽曲は、これまでのジャニーズ制作陣とは異なる作家が目立ちます。

数々のアニメソングの作詞を手掛けた工藤哲雄氏をはじめ、クレジットには他のジャニーズアイドルとはひと味違う名前がずらりと並びます。

▼TOKIOに楽曲提供アーティストの例

リリース年 アーティスト 曲名
1994年 工藤哲雄 「LOVE YOU ONLY」
2006年 中島みゆき 「宙船」
2007年 甲斐よしひろ 「ひかりのまち」
2007年 長渕剛 「青春 SEISYuN」
2008年 椎名林檎/東京事変 「雨傘」
2010年 TUBE(前田亘輝・春畑道哉) 「-遥か-」

 

それゆえ、TOKIOの楽曲はジャニーズらしいというよりも「TOKIOらしい」。そう言えるのではないでしょうか。

各々の楽器が見せ場を持てるようなアレンジ、とにかく前へ前へというポジティブな歌詞、誰もが口ずさみやすいキャッチーなメロディ。

ボーカル・長瀬が年齢を重ね、大人の魅力を放つようになると、バンドのサウンドも本格的なものになっていきます。

全員がソングライターであるTOKIO。

現在はシングル・アルバム問わず、楽曲制作やMVの企画・制作に至るまで自分たちで行っています。

本格的なバンドとしてオリジナルの世界を確立しつつあるTOKIOには、やはり新曲のリリースを期待してしまいます。

欠けてしまったメンバーの「音」を、他のミュージシャンに任せるのは簡単なことでしょう。

でもそれはTOKIOの音ではない。

それほどメンバーというのは「代わりがいない」存在。

楽曲リリースがないことは寂しいけれど、5人でなければTOKIOではないとも思う。

とても複雑な心境で待つ日々です。

 

“ジャニーズのバンド”としてのTOKIO

 

まだデビュー初期のころのこと。当時のジャニーズとしては異端ともいえる、サングラス&バンダナといった格好で寡黙にビートを刻む松岡は、カメラが回ってくるタイミングでスティックを回してみせることがよくありました。

城島、山口、国分も、カメラ目線と笑顔は欠かしません。

コンサートでは、フライングしながら楽器を演奏することもありました。

一部は当てぶりもあったでしょうが、あくまで当時の彼らは「ジャニーズのバンド」。

エンターテインメントであることはもちろん、アイドルでありなおかつバンドであることの両立を模索していたのでしょう。

特に彼ら4人は、ジャニーズのエンターテインメントを誰よりも間近で見てきた存在なのですから。

 

長瀬はというと、デビュー当時のトレードマークは短パン。

デビュー曲はまだまだ歌唱も頼りなく、ツインボーカルとして多くのパートを山口が歌唱しています。

けれど、長瀬をTOKIOのボーカルに決めたことこそ、ジャニー喜多川社長の功績であると思います。

私はかつて、まだジャニーズジュニアであった長瀬が、あるグループのバックダンサーを務めている映像を見たことがあります。

ダンススキルに秀でているわけではない、むしろ苦手なほうなのではないかと思うほど振り付けも危うい長瀬でしたが、なぜだかとにかく目をひくのです。

ジュニアらしからぬ長身、おどろくほど整った顔立ち、そして全力で「演じる」ようなダンス。

彼は画面のどこで踊っていても、たとえ上手くはなかろうとも、同世代のなかでは目立ちすぎてしまう。

目を奪われるというのはこういうことかと、彼の存在感やオーラに圧倒された記憶があります。

 

すでに形が出来つつあった先輩グループのボーカルというのは、まだ15歳の少年にとって恐れ多いポジションだったことでしょう。

しかし長瀬にとってはこれ以上ない適所であったと思います。

ステージを経験するたびに着実に度胸をつけていく長瀬は「ボーカル」としてどんどん成長し、ポジションを確立するようになります。

デビューからたった数年で、TOKIOのセンター、TOKIOのボーカルは長瀬しかいない、そんな存在になりました。

いまTOKIOは、空を飛ぶこともなければ派手な衣装に身をつつむこともほとんどない。

けれど目を引く「魅せ方」がある。

ジャニーズ×バンドの答えは、TOKIOそのものだと言えるでしょう。

 

次のページではTOKIOの90年代のおすすめの名曲をご紹介します。

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V6の軌跡

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この章では90年代活躍したジャニーズグループ「SMAP」「TOKIO」「V6」「KinKi Kids」の軌跡と楽曲を紹介します。

このページからは「V6」の軌跡と楽曲を紹介していきます。

 

「V6」90年代簡易年表

年月 出来事
1995年11月 「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビュー
1996年9月 4枚目シングル「TAKE ME HIGHER」でオリコン1位
1997年1月 5枚目シングル「愛なんだ」でオリコン1位
1997年4月 6枚目シングル「本気がいっぱい」でオリコン1位
1997年7月 7枚目シングル「WAになっておどろう」でオリコン2位
1997年10月 「学校へ行こう!」放送開始
1997年11月 8枚目シングル「GENERATION GAP」でオリコン1位

 

V6の軌跡

バレーボールデビューの元祖

 

1995年。当時、今でいうジャニーズジュニアは森田剛・三宅健による「剛健コンビ」を筆頭に、入所間もない怪談トリオ(滝沢秀明・今井翼・川野直樹)を加えて人気が沸騰。

いよいよ黄金期へ突入しようという時期を迎えていました。

まだデビュー前のKinKi Kidsも飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍しており、当時のジャニーズファンの間では「次のCDデビューは誰なのか、いつなのか」という期待を込めた噂でもちきりでした。

そこへ、突如発表されたのがV6のデビュー。

そのメンバーの顔ぶれには、誰もが驚きを隠せなかったことでしょう。

 

実質ジュニアでトップの人気を誇っていた剛健コンビのデビューは予想の範囲内。

また、当時からあらゆる現場でムードメーカー的存在だった井ノ原快彦にも、何度かデビューの噂はありました。

そこへ、SMAPよりも長くジャニーズで活動しているベテランジャニーズ・坂本昌行と長野博、そして入所わずか2ヶ月というダークホース・岡田准一を加えた6人グループ。

最年長と最年少が十近くも歳が離れているという、誰もが想像もしなかった組み合わせでのデビューでした。

 

V6の結成

 

V6結成のきっかけは「ワールドカップバレー」。

いわゆる「バレーデビュー」の先駆けです。

デビュー曲「MUSIC FOR THE PEOPLE」はワールドカップバレーのイメージソングに起用され、深夜帯には「Vの炎」というバレーをテーマにした6人主演のスペシャルドラマも放送されました。

ファンにとっては突然のデビューながら、お披露目に至るまではさまざまな動きがあったことがメンバーの口から明かされています。

また、それぞれが微妙に異なるエピソードを語るので、実際のところははっきりとされていません。

 

ジャニー喜多川社長から、一番はじめにグループデビューの話を聞かされたのは三宅だそう。

しかし、近年そのことを三宅がTVで明かすまで「自分が一番最初に相談を受けた」と思っていたと坂本は言います。

実際、メンバーの選考やバレーの練習について坂本は、ジャニー喜多川社長とさまざまなことを話し合ったそうです。

 

【コラム】バレーボールの練習をしていた理由

バレーの練習は最近では必要ではないようですが、V6の時は

●坂本が元バレー部員だったこと
●バレーボールに対するやる気を見てメンバーを決めるべく、ジャニー喜多川社長がジュニアにバレーボールの練習をさせた(もちろんデビューがかかっていることは内密の上で。その際、ほとんどのジュニアは遊んでおり、まだ入所2週間ほどでジュニア内に友達がおらず、トニセンメンバー(すでにデビューは確定済み)と一緒に黙々とバレーを練習していた岡田准一を気に入ったジャニー社長により、最終メンバーとして決定したという説があります)
●デビュー後、バレーボールをテーマにした深夜ドラマに6人で主演することになっていた

という3つの理由があり、バレーボールの練習を行ったようです。ちなみに99年の嵐のデビュー時にもバレーボールドラマがあったため、少々練習は行っていました。

 

当初、V6デビューの構想に森田は含まれていませんでした。

しかし、デビューの話を聞かされた三宅は「(森田)剛がいないならやらない」とジャニー喜多川社長に告げたと言います。

ジャニー喜多川社長は「(森田)剛が入ったら、YOU一番になれないよ?」と確認したそうですが、三宅の意思は固かったよう。

いまも剛健コンビとして、見えない絆で強く結ばれている2人。

デビュー当時のV6の人気を支えたのも、この2人の活躍が大きいといえるでしょう。

 

それほどの逸材がジュニアのトップを走っていた時代に、急遽メンバーに大抜擢された岡田。

まだ頬も赤い、幼さの残る14歳でした。

しかも加入するグループは激しいダンスを売りにしたアクロバットグループ。

デビュー曲から当然のように、全員にバック転やバック宙の振り付けがあります。

下積みなくデビューするということは、一見華々しいように見えますが並大抵ではない苦労があったことでしょう。

 

ジャニーズのダンスやファッションの転換期

 

1995年11月に「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビューしてから

「MADE IN JAPAN 」(1996年2月リリース、2枚目シングル)
「BEAT YOUR HEART」(1996年5月リリース、3枚目シングル)
「TAKE ME HIGHER」(1996年9月リリース、4枚目シングル)

と数曲は、当時流行していたユーロビート調の楽曲が続きました。

ロックダンスやブレイクダンス、華麗なアクロバットでメンバーがあちこちへ飛び交う、魅せるステージがV6の最大の魅力。

「TAKE ME HIGHER」は、長野が主演をつとめた「ウルトラマンティガ」の主題歌に起用され、幅広い世代にV6の存在が知られるきっかけになりました。

 

デビュー後もやはり目立つ剛健コンビ。

とくに森田は、茶色く染めた髪に鋭く整えた眉、腰で履いたパンツに前を開けたジャケット、ゴツめのアクセサリーといった、これまでのジャニーズとはひと味ちがう「ワルっぽい」魅力を持っていました。

いままでのジャニーズにない個性に加え、ダンスのしなやかさも相まって、彼に憧れるジャニーズジュニアも多かったよう。

V6がデビューした95年頃は、女性にはアムラーやコギャル系、男性にはロン毛やサーファースタイルといったファッションが流行した時代。

これまでジャニーズが見せてきた「かっこよさ」とは方向性が異なりはじめた時代です。

 

J-POPにおいても、ユーロビートはもちろんのこと、ヒップホップやR&B、ラップを取り入れた楽曲が注目されはじめたころ。

当時の「カッコイイ」は実に多様化していました。

特にV6は、流行に敏感なエイベックスからCDをリリースしています。

楽曲はもちろんのこと、衣装の傾向もこれまでのジャニーズとは異なり、一見すれば私服にも見える「あえてキラキラしない」衣装や、ダボっとしたストリート系ファッションなど、若者の流行を敏感に取り入れていきました。

当時ジャニーズのグループはいまよりもずっと数が少なく、V6やKinKi Kidsらは、学生が休みになる時期全てにコンサートツアーを行うのが定例でした。

「春コン」「夏コン」「冬コン」と呼ばれ、ジャニーズジュニアもそれらに帯同し、各地に遠征するのがお決まりでした。

ファッショナブルでダンサブルなV6に憧れるジャニーズジュニアは多く、当時ツアーをともに回った後輩アイドルたちは、今も目を輝かせて当時のV6の話をすることがあります。

「青春だった」と。

 

V6の楽曲制作陣はジャニーズではおなじみの面々。馬飼野浩二、相田毅、林田健司といった、それまでのジャニーズを支えてきたアーティストが名を連ねています。

しかし、テクノ系サウンドやユーロビートを主としたV6の楽曲と、光GENJIやSMAPの楽曲。同じ人たちが作ったとは、一度聴いただけではわからない。

ミュージシャンは、いつの時代も柔軟に変化し、進化し続けるものなのだとつくづく感じます。

そして、その幅の広さに驚かされるのです。

 

「愛なんだ」「学校へ行こう!」が転機に

 

V6には、彼ら自身も語る転機がいくつかあります。

90年代でいうならば、まず1997年1月にリリースされた「愛なんだ」は外すことのできない転機といえます。

それまでV6がリリースしてきたユーロビート調の曲とはまるで異なる方向性の楽曲。

このヒットを機に「本気がいっぱい」「WAになっておどろう」「GENERATION GAP」といったポップな曲やメッセージ性の高い曲が次々にリリースされることになります。

 

「愛なんだ」は、彼らが表現できる世界を新たに引き出した楽曲。

「こういう曲も歌えるんだ、と思った」(坂本)、「“愛なんだ”を歌っているときはみんな笑顔」(森田)というように、彼らにとって今でも大切な楽曲であり、大きな転機だったのでしょう。

 

そして97年。ついに、V6の代名詞ともいえる番組「学校へ行こう!」がスタート。ゴールデンタイムの冠バラエティ番組を持つというのは、彼らにとってさぞ大きな出来事だったことでしょう。

メンバーがそれぞれ身体を張って全力で届けるパンチの効いたコーナーの数々や、時折垣間見える彼らの素の姿に笑い、時には涙して…まさに青春時代をともに過ごした番組でした。

学生のあいだでは「昨日の“学校へ行こう!”見た?」が合言葉のように交わされ「未成年の主張」が近隣の高校へやってくる!となれば、街じゅうが騒ぎになるほど。※未成年の主張=「学校ヘ行こう!」の人気企画。V6のメンバーが見守る中、生徒が学校の屋上から思いのたけを叫ぶ企画。

 

彼らの飾らない姿と個々のバラエティスキル、チームワークにより「学校へ行こう!」は2019年現在も特番が組まれるほどの人気番組になりました。

いつしかV6の人気は絶対的なものとなり、98年には「24時間テレビ」のメインパーソナリティーをつとめるなど、ジャニーズの看板グループのひとつとして確固たる地位を築きました。

 

2020年には、グループ全員が40代となるV6。

いまもダンスパフォーマンスは健在です。

それぞれがそれぞれの場所で活躍しながらも、この6人が集まれば絶対的なアイドルとして輝く。

V6もまた、これまでにないアイドルグループの形を作る存在かもしれません。

 

次のページではV6の90年代のおすすめの名曲をご紹介します。

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この章では90年代活躍したジャニーズグループ「SMAP」「TOKIO」「V6」「KinKi Kids」の軌跡と楽曲を紹介します。

このページからは「KinKi Kids」の軌跡と楽曲を紹介していきます。

 

「KinKi Kids」90年代簡易年表

年月 出来事
1991年5月 堂本光一と堂本剛が初対面
1992年12月 紅白歌合戦で「KANZAI BOYA」とユニット名が付く
1993年4月 「KinKi Kids」に改名
1994年7月 ドラマ「人間・失格」出演
1994年12月 日本武道館で初の単独コンサート
1995年4月 ドラマ「金田一少年の事件簿」
1996年1月 ドラマ「銀狼怪奇ファイル」
1996年4月 ドラマ「若葉のころ」
1997年7月 シングル「硝子の少年」アルバム「A album」でCDデビュー
1997年11月 2枚目シングル「愛されるより 愛したい」リリース。CD累計売上163万枚。
1998年7月 4枚目シングル「全部だきしめて」リリース。CD累計売上115万枚。

運命的なふたり。「シンメ」の究極の形

 

ダンスのフォーメーションにおいて、対となって踊ることをシンメトリーといいます。この「シンメ」はジャニーズファンにとってたいへん重要なもの。

ファンはシンメという関係性に特別感を抱き、シンメにしか出せない空気感を愛し、息の合ったコンビネーションに胸を躍らせます。

そして何より、二人が並んだときの「無敵感」に夢を見るのです。

 

KinKi Kidsは、1991年5月5日に横浜アリーナで開催された光GENJIのコンサートで初対面を果たして以降、2019年現在までずっとコンビを組んできたジャニーズきってのシンメトリー。

もともとは近畿二府四県からひとりずつ抜擢し、複数人による関西発グループを結成する構想だったそう。

しかし、光GENJIやSMAPのバックダンサーとして経験を積んでいった二人は、1992年にSMAPのバックダンサーとして出演した紅白歌合戦で「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」とユニット名が付けられ、正式にデュオとなりました。

同じ「堂本」という苗字、関西出身(光一の出生は千葉)、学年違いの同年生まれ(光一があと1日早く生まれていたら同年生まれにはならなかった)、ちょうど100日違いの誕生日…。

ルックスも性格もまるで異なるのに、どこか似ている、同じ雰囲気をまとう二人。

偶然という言葉では片付けられない、もはや運命的な出会いとしか言いようがありません。しかし運命だとか必然だとか表現にこだわるよりも、二人で歩んできたその軌跡こそが本物です。

ふとしたときに重なる発言や仕草、ときにふたりにしか分からない笑いのツボ、変わらぬ距離感、それらすべてに、20年をゆうに超える二人の歴史を感じずにはいられません。

彼らをデビュー前からかわいがっていたSMAP中居氏が「キンキくらいになると、死ぬときは手を繋いで同時に死んでほしい」とバラエティ番組で発言したこともあるほど、誰の目から見てもジャニーズきっての絶対的なコンビ。

彼らの人気曲「欲望のレイン」「愛のかたまり」は歴代の人気シンメにカバーされ、シンメを組むコンビにとっても、シンメを愛するジャニーズファンにとっても憧れの曲です。

 

KinKi Kidsの軌跡

 

KinKi Kidsへの想いをアツく語りたいところではありますが、いかんせん記録の多い彼ら。

当時、異例ずくめとも言えるKinKi Kidsの活躍と人気ぶりは、あとに続くジャニーズアイドルに大きく影響を与えました。

90年代のKinKi Kidsの人気がどれほど凄かったか。

少なくともそれが、当時を知らない読者の方に伝われば幸いです。

 

デビュー前に「日本武道館」で初単独コンサートを開催

 

KinKi Kidsは入所した当初、平日は関西の地元の学校へ通い、土日は京都駅で待ち合わせをして二人で上京し、レッスンを受けるという日々を送っていました。

先輩アイドルの冠番組への出演や、バックダンサーとしての活動、雑誌への掲載など露出が増えるにつれ、すぐにジャニーズファンの間で注目の存在になります。

1993年には「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」から「KinKi Kids」に改名。

光一が中学三年生、剛が中学二年生の1993年に上京。

本格的にトップアイドルへの道をまい進していきます。

彼らが20歳になったころ、上京当時の心境を語る機会が何度かありました。

親元を離れ、アイドルとして頑張っていくと決めた少年の心は、推して知るべし、といったところでしょうか。

当時はそんな姿など微塵もみせませんでしたが、こういった背景も由来してか、彼らにはどこか切なく儚い雰囲気があった。

それさえも魅力でした。

 

ラジオ・テレビ・ドラマで大活躍

 

東京進出により彼らはさらに活躍の幅を広げていきます。

NHK「アイドルオンステージ」では、自分たちで選んだ楽曲を毎週のように披露。

もともと引っ込み思案でおとなしいふたりですが「関西出身アイドル」という周囲の期待から、慣れないトークもがんばっていた姿が印象的です。

 

冠ラジオ番組や冠バラエティ番組を持ちながら、ドラマにも多数出演。

1994年にはドラマ「人間・失格~たとえばぼくが死んだら」に二人揃って出演し、お茶の間にも広くその存在が知られることとなりました。

この作品において、二人はそれぞれオーディションで主役級の役どころを勝ち取っています。

同年の年末には、KinKi Kidsとして初の単独コンサートを日本武道館で開催しました。

 

助演としても多数のドラマ出演を誇る彼らですが、1995年にスタートした「金田一少年の事件簿」シリーズ、翌96年「銀狼怪奇ファイル」、ダブル主演が話題となった名作「若葉のころ」は、彼らの代名詞とも言える作品です。

当時の彼らはレギュラー番組を6本に加えCMにも複数出演の大抜擢。

KinKi Kidsをテレビで見ない日はありませんでした。

デビュー前にも関わらずオリジナルの楽曲を持ち、ミュージックステーションにも何度となく出演しています。

まさに眠る暇もない毎日。メディアからは「日本一忙しい高校生」と呼ばれ、ときに痛々しささえも感じるほど、当時の彼らは多忙を極めていました。

普通の学生らしい青春など、まるでなかったのではないかと思います。

それでも、求められる「KinKi Kids」を全力でやり切ってくれた二人。

KinKi Kidsが駆け抜けた10代は、誰にも真似のできない、追いつくこともできないほど、眩しく目まぐるしく過ぎていったことでしょう。

 

少年が一番輝く時間を見せてくれた。

彼らがくれた青春を、ファンは今も大切に抱きしめています。

人気はとどまるところを知らず、クラスでは「光一派」「剛派」どちらかという話題でいつも持ちきりでした。

そして結局みんな、二人ともが好きだというオチ。

 

これほどまでの人気を誇りながら、一向にCDデビューの朗報は訪れません。

「金田一少年の事件簿」の主題歌「kissからはじまるミステリー」、「若葉のころ」の主題歌「FRIENDS」をはじめ、それぞれソロで主演したドラマの主題歌にもオリジナル曲「僕は思う」「ひとりじゃない」が起用されました。

そのたびに「いよいよデビューか?」と期待しながらも「リリースの予定はない」の繰り返し。

しかし。その日は突然やってきたのです。

 

待望のデビュー&いきなりのミリオンセラー

 

1997年5月29日。同年7月21日にKinKi KidsがCDデビューするという知らせがワイドショーをかけめぐりました。

楽曲は未発表の完全オリジナル曲「硝子の少年」。

さらにはこれまでのオリジナル曲を収録した1stアルバム「A album」もシングルと同日に発売するという前代未聞のデビューです。

本人たちさえ前日まで知らされていなかったという衝撃のデビュー会見に、ファンは驚くとともに歓喜しました。

学校は、しばらくその話題でもちきり。

みんなが待っていた日がようやくやってきたのです。

 

作詞松本隆・作曲山下達郎によるデビュー曲「硝子の少年」は、オリコン初登場1位を記録。

2019年現在の累計では180万枚近くの売り上げを記録しています。

楽曲、歌詞、振り付け、すべてにおいてジャニー喜多川氏がこだわり抜いたというとびっきりの作品。

昭和歌謡のテイストを漂わせた、哀愁のあるメロディアスな楽曲。

瑞々しくもありながら、どこか儚さと憂いのある彼らを指すような「硝子の少年」という詩的なタイトルと歌詞。

そして山下達郎が「濡れた声」と表現した、剛の色気のある歌い出しに続く光一の甘い声、重なるユニゾン。

この曲と出会うためにデビューを待たされたのならかまわない、むしろこの楽曲に出会うためだったのかとさえ思える、会心のデビュー曲でした。

 

1997年12月にリリースされた2枚目のシングル「愛されるより愛したい」も、話題作となったダブル主演ドラマ「ぼくらの勇気・未満都市」の主題歌として大ヒット。

10代最後のアルバム「B album」には自作曲も収録されています。

冠バラエティ番組「LOVE LOVE あいしてる」をきっかけに始めたギターもみるみる上達した二人。

KinKi Kidsは、マイナーコードが似合う実力派アイドルとしてその地位を確立させ、豪華制作陣とともにジャニーズの「アーティスト性」を高めました。

 

現在のKinKi Kids

 

今では二人も40歳。持ち前の才能と努力を武器に、舞台に音楽にとそれぞれが自分の道を進み、ジャニーズタレントとしてもグループとしても、唯一無二の存在を確立しています。

良い意味で肩の力が抜けた独特のゆるさも、現在のKinKi Kidsが持つオンリーワンの魅力といえるでしょう。

それぞれタイプの異なるルックスを持ち、歌って踊るカッコよさと、やわらかな関西弁で話すギャップ。

まさに女の子に恋されるために生まれてきたような二人組。

90年代の女の子たちが恋した無敵のデュオは、今までもこれからもどこまでも、並んで歩み続けることでしょう。KinKi Kid“s”として。

 

次のページではKinKi Kidsの90年代のおすすめの名曲をご紹介します

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ジャニーズブームの歴史 ~90年代ジャニーズを理解する~

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ジャニーズファン歴25年で『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?』の著者であるシン氏が90年代ジャニーズという存在を紐解く!「少年隊」「光GENJI」が築いたジャニーズの礎とは?「SMAP」「V6」「TOKIO」「KinKi Kids」の軌跡とおすすめ楽曲をジャニーズと共に青春を過ごしてきた筆者視点で語る!

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著者:シン アキコ

30代前半女性。ジャニーズファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛している。著書『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?: J-POP愛して25年の著者がヒット曲を徹底分析 (Webonブックス) 』

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90年代には、SMAP、TOKIO、V6、KinKi Kidsという誰もが知る人気グループが続々とCDデビューを果たしました。

90年代当時は、活動しているジャニーズグループの母体数そのものが少なく、メディアの数も媒体も現在とはまるで異なります。

そういった要因も関連してか、2019年現在よりもメジャーな立ち位置に「ジャニーズ」は君臨していたように思います。

しかし、90年代の音楽界、あるいはアイドル市場において「ジャニーズ」の人気を不動のものとしたのは、85年デビューの少年隊、87年デビューの光GENJI、88年デビューの男闘呼組の存在と功績。

彼らの活躍と魅力を語らずして、90年代のジャニーズを語ることはできません。

 

ジャニーズ簡易年表

▼ジャニーズ簡易年表

年月 出来事
1968年9月 フォーリーブス「オリビアの調べ」でレコードデビュー
1985年12月 少年隊「仮面舞踏会」でレコードデビュー
1987年8月 光GENJI「STAR LIGHT」でレコードデビュー
1988年8月 男闘呼組「DAYBREAK」でレコードデビュー
1991年9月 SMAP「Can’t Stop!! -LOVING-」でCDデビュー
1994年9月 TOKIO「LOVE YOU ONLY」でCDデビュー
1995年11月 V6「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビュー
1997年7月 KinKi Kids「硝子の少年」、アルバム『A album』でCDデビュー

 

80年代デビューのジャニーズ

少年隊

 

1985年12月「仮面舞踏会」でデビューした少年隊は、まさにジャニー喜多川氏の夢を具現化したともいえる存在。

フォーリーブスの時代から脈々と息づくジャニーイズムは、少年隊を持ってひとたびの完成を見せたといえるでしょう。

彼らは高い身体能力と表現力を武器にミュージカルでも活躍をみせました。

 

【コラム】ジャニーイズムとは

私の主観ではありますが

  • 歌って踊る
  • オリジナルの新しさ(アイデア)がある
  • 美男子である
  • 歌、ダンスにストーリー性がある
  • 数分間のミュージカルである
  • 見て楽しめるものである

といったものにジャニーイズムを感じます。ジャニー喜多川氏自身、ミュージカル映画「ウエストサイドストーリー」に感銘を受け、エンターテインメント事業の道を進んだとのこと。歌って踊る、ストーリー性がある、見て楽しむエンタメこそジャニーイズムであると思います。

 

光GENJI

 

少年隊がデビューしてから約2年後の1987年8月に「STAR LIGHT」でデビューした光GENJIは、まさに「国民的スーパーアイドル」の代名詞的存在。

日本中の少年少女が彼らに熱狂し、社会現象をも引き起こした伝説のアイドルです。

彼らの逸話は今も語り継がれ、現役時代を知らない世代にも「光GENJI」の名やヒット曲が息づいていることでしょう。

少年隊の系譜を引き継ぎ「ジャニーズ=歌って踊れるアイドル」の定説を守りながらも、ダンスや楽曲のジャンルはまるで異なるもの。

少年隊の次に光GENJIが現れたことで、ジャニーズが持つアイドルとしての幅の広さを見せつけました。

 

男闘呼組

 

光GENJIのデビューの翌年に「DAYBREAK」でデビューした男闘呼組は、当時のジャニーズでは初のバンドスタイル。

デビュー当初こそ当てぶりであったものの、次第に自分たちでの演奏や楽曲制作を行うようになります。

主にメインボーカルをとっていた成田昭次、高橋一也の歌唱力は「ちょっと歌がうまいアイドル」の域を超え、それぞれに味をもつホンモノ。

彼らもまた、ジャニーズの表現を広げた存在です。

ジャニーズで音楽ができる。

バンドができる。

ロックができる。

男闘呼組が作ったその実績は、のちに続く少年たちの夢を広げました。

 

実際、SMAPは男闘呼組のカッコよさを何歳になっても少年のような瞳で話していましたし、KinKi Kidsはデビュー前のコンサートで男闘呼組の曲をよくカバーしていました。

ジャニーズアイドルが憧れるアイドル、それが男闘呼組でした。

たとえ未来のアイドルを夢見る少年たちであっても、素顔は思春期真っただ中の男の子。

「男らしさ」「不良っぽさ」への憧れはあって当然でしたでしょうから。

 

後継というわけではありませんが、94年にはTOKIOがバンドスタイルをとるアイドルとしてデビュー。

歌って踊らずとも「ジャニーズ」が成り立つ、男闘呼組の作った功績は大きいと思います。

 

3のグループが作った礎

 

この3つのグループには、それぞれ異なる色があります。そしてそれぞれの色が、ジャニーズの礎を作り上げました。

歴史あるジャニーズ事務所ですから、さらに遡れば数多くのアイドルやタレントが存在します。

メディアは多様化し、ブームは目まぐるしく変化する。

当然、時代によってアイドルの位置づけや、求められるスタイルは異なっていきます。

少年隊・光GENJI・男闘呼組。

彼らは、TVがメディアの主流であった時代に「ジャニーズアイドル」の可能性を見せつけた存在です。

ジャニーズはこんなことができる、と。

ジャニーズは、目で見、耳で聴き、ファンも一体となって楽しむ総合エンターテインメントであると。

近代ジャニーズに教科書があるならば、彼らはその1ぺージ的存在であると思うのです。

 

【コラム】それまでのジャニーズの傾向

私の主観ではありますが、それまでのジャニーズの傾向は…

  • 人気を得たグループはあったものの、社会現象や国民的アイドルには至らなかった。ブームまでは起こせず、短命であった。そのためソロへの移行や俳優への移行も多かった。
  • ソロ歌手は数名、爆発的人気を得た。しかし冒頭で述べたジャニーイズムを引き継ぐ存在ではなかった。
  • 高いダンススキルやパフォーマンス(見る)よりも歌唱(聞く)に長けていた。

というものがあったと考えます。

 

そして彼らのバックダンサーをつとめてきたメンバー、彼らの活躍を間近でみてきたメンバーが90年代に入り続々とデビューを果たします。

今回語るのは主に彼らのお話ですが、90年代ジャニーズの魅力をより深く味わっていただくには、やはり「ジャニーズの歴史」について知ることが不可欠なのです。

 

ジャニーズがいつの時代もスターだった理由 ~歴史や定義を守り次世代にバトンをつないでいく~

 

なぜジャニーズはいつの時代もスターだったのか。

ジャニーズという歴史や定義を大切にしながらも、時代の流れに敏感かつ柔軟であったことが、ジャニーズの成功の秘訣であると私は考えます。

ジャニーズアイドルたちは、いつの時代も先輩アイドルの曲を歌い継ぎます。

フォーリーブスの「ブルドッグ」「踊り子」といったジャニーズ創世期の楽曲も、令和を迎えた今なお歌い継がれている。

アレンジやパフォーマンスを時代によって変化させながら、先人の楽曲を繋いでいく。ジャニーズはそうして歴史を紡いできました。

 

ジャニーズの定義、それは「エンターテインメントであること」そして「アイドルであること」。

観る者に夢を与える、非日常へと連れていく、いつも笑顔で全力のパフォーマンスを見せる。

それが、ジャニーズイズムの基礎であり、ジャニーズ事務所に根付いたアイドル精神であると考えます。

そんな歴史と定義を大切に守り、次世代へバトンを繋いでいく。

その上で、ジャニーズは流行や時代の変化に実に柔軟なのです。

 

ジャニーズは流行や時代の変化に柔軟

 

音楽氷河期にデビューしたSMAPは、バラエティや体当たりの企画にも果敢に挑戦しました。

ジャニーズアイドルの領域をきちんと守りながらも、彼らは「手の届く存在」へと降りてきてくれた。

アイドルは、実際には手が届かない存在です。けれどファンタジーの住人ではない。

同じように毎日を生き、同じように年齢を重ね、悩んだり苦しんだりもする。

そういった等身大の姿を見せるというのは、80年代のアイドルブームやアイドル神話の去ったJ-POP界を生き抜く上では得策であったといえます。

 

また、当時流行していたユーロビートを積極的に取り入れ、ダンスの近代化を図ったのはV6。

ジャニーズが旧来踊ってきたシアター系のしなやかなダンスを抜け出し、ロックダンスやブレイクダンスといった新たな魅せ方を極め、アクロバティックな高いパフォーマンス力を見せつけました。

 

関西弁を話すアイドルというのも、当時はたいへんめずらしかったこと。ジャニーズは、KinKi Kidsに標準語を話すことをあえてさせませんでした。

 

今でこそ当たり前のことですが、新しい「当たり前」、後世にとっての当たり前を作るのは、いつの時代もジャニーズでありジャニー喜多川であったのではないかと思います。

90年代も後半に近づくと「いつも笑顔のキラキラ正統派アイドル」というスタイルはやや時代遅れとなっていきます。

バンドブームや洋楽、ヒップホップやR&Bといった多様な音楽スタイルがヒットチャートにのぼるようになるとますます世の「カッコイイ」は多様化していきました。

ここでもジャニーズは「正統派アイドル」の核を守りながら、流行を敏感にキャッチし柔軟に変化した。

「カッコイイ」の形をうまく時代の波に乗せ変化させることで、90年代もトップアイドルであり続けた。

そうして、ミレニアム以降のジャニーズへとバトンを繋いだのです。

 

ひとつひとつのグループに味があり、歴史があり、色がある。

それを読み解くことで「ジャニーズという文化」を俯瞰でみる面白さがあることを知っていただきたいです。

このページに続く第2章では80年代に活躍した「少年隊」「光GENJI」の2つのグループについてさらに解説してまいります。80年代の彼らの活躍を知れば、90年代ジャニーズについても理解が深まることでしょう。

そして第3章では、90年代を彩ったジャニーズアイドルの軌跡、ヒット曲を読み解きながら、ジャニーズという文化の魅力を解説していきます。

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SMAPの軌跡

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ジャニーズファン歴25年で『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?』の著者であるシン氏が90年代ジャニーズという存在を紐解く!「少年隊」「光GENJI」が築いたジャニーズの礎とは?「SMAP」「V6」「TOKIO」「KinKi Kids」の軌跡とおすすめ楽曲をジャニーズと共に青春を過ごしてきた筆者視点で語る!

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30代前半女性。ジャニーズファン歴25年。70年代、80年代、90年代の邦楽を愛している。著書『なぜ90年代J-POPはあんなにアツかったのか?: J-POP愛して25年の著者がヒット曲を徹底分析 (Webonブックス) 』

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この章では90年代活躍したジャニーズグループ「SMAP」「TOKIO」「V6」「KinKi Kids」の軌跡と楽曲を紹介します。

まずは「SMAP」の軌跡と楽曲を紹介していきます。

 

「SMAP」90年代簡易年表

年月 出来事
1988年4月 SMAP結成
1991年9月 「Can’t Stop!! -LOVING-」でCDデビュー
1994年3月 12枚目シングル「Hey Hey おおきに毎度あり」で初のオリコン1位
1994年6月 13枚目シングル「オリジナルスマイル」でオリコン2位
1994年9月 14枚目シングル「がんばりましょう」でオリコン1位
1994年12月 15枚目シングル「たぶんオーライ」でオリコン1位
1995年1月 「がんばりましょう」で日本を元気づける
1995年3月 16枚目シングル「KANSHAして」でオリコン1位
1996年4月 冠番組「SMAP×SMAP」放送開始
1996年5月 メンバーの森且行が脱退
1998年1月 27枚目シングル「夜空ノムコウ」で初のミリオンヒット
2000年8月 32枚目シングル「らいおんハート」で二度目のミリオンヒット

 

SMAPはジャニーズを変えた存在

 

2016年。SMAPは惜しまれつつも解散を迎えましたが、その活動は国民的アイドルグループと称されるにふさわしいものでした。

前章で紹介した少年隊や光GENJIがジャニーズの教科書を作った存在であるとするならば、SMAPはそこに数多くの番外編を残したアイドルであると、私は思います。

後に続くアイドルの中には、教科書を丁寧に辿る者もいれば、ときには塗り替える者もいるでしょう。

「バラエティへの本気の進出」「衣装も用意されないアイドルから国民的アイドルへの転身」「30歳を超えても歌って踊るアイドルグループで居続けたこと」などSMAPの描いた番外編はSMAPにしか辿ることのできないページ。

解散してもなおSMAPがオンリーワンであることの証明です。

日本中、老若男女問わず誰もが彼ら個人の名前を言える。

いつのまにかそんなグループになっていましたね。

「音楽番組氷河期のデビュー」「なかなか埋まらないホール公演」といった、ジャニーズアイドルとしては異例ともいえる不遇の時期を乗り越えてきたSMAP。

体当たりもいとわぬバラエティへの進出や、コミックソングも全力でやりきる姿勢など「新しいアイドル」の道を切り拓き、着実に知名度と人気を獲得していきました。

 

SMAPの軌跡

不遇の時代

 

音楽面ではキャッチーな良曲に恵まれ、アニメの主題歌やCMに起用されながらも、あと一歩というところで代表曲には至らない時代が続きます。

代表曲に至らなかった理由の一つとしては、メディアで曲を披露できる機会がこれまでのジャニーズアイドルと比較して圧倒的に少なくなったことが挙げられます。

この頃、日本の主要な音楽番組は軒並み終了していきました。「ザ・ベストテン」が89年に終了、「夜のヒットスタジオ」シリーズも90年には終了。とくに「ザ・ベストテン」は毎回趣向をこらした演出や生パフォーマンスが人気の番組であり、少年隊や光GENJIのブレイクには欠かせない番組であったと思います。

これらの番組が終了したことはSMAPにとっては痛手であったと思いますし、彼ら自身もかつてそのように語っていたことがありました。

また、音楽業界ではビーイング系ブームやバンドブームに火がついたことで、相対的にジャニーズ全体の売り上げも低迷していた時期でした。

※ビーイング系ブーム:ビーイングという音楽プロダクション所属によるアーティスト「ZARD」「大黒摩季」「DEEN」「B’z」などが90年代J-POPシーンで大活躍。1992年12月28日から93年7月26日までの31週間中、27週にわたってビーイング系アーティストが首位を獲得するという快挙を成し遂げる。ビーイング系ブームについて詳しくはこちらで解説!

 

現在とは異なり、曲を聴くためにはCDを購入しなければならない時代です。

楽曲が受け、気に入られればファン以外も購入し、売り上げが伸びるということ。

知名度や話題性が、ダイレクトにチャートに反映する時代でした。

一般層にもCDが購入されチャートをかけのぼるためには、良曲であることはもちろん、話題性やタイアップといった付加価値も必要だったといえるでしょう。

 

黄金時代へ突入

 

そんなとき転機となったのは1994年にリリースされたSMAPの12枚目のシングル「Hey Hey おおきに毎度あり」。

当時の「KANZAI BOYA」ことKinKi Kidsとのかけ合いが話題になりました。

この曲でSMAPは初のオリコンチャート初登場1位を獲得しています。

続く「オリジナルスマイル」は木村拓哉出演「オロナミンC」のCMタイアップに起用、以降「がんばりましょう」「たぶんオーライ」「KANSHAして」と3か月に1枚のペースで新曲をリリース。

いずれもスマッシュヒットを記録し、SMAPはいよいよ黄金時代へと突入していきます。

 

当時のSMAPは現オートレーサーの森且行を加えた6人体制。

メンバー全員、従来のジャニーズアイドルと比較すると長身でスタイルが良く、ステージ映えするシルエットが魅力でした。

アイドル然としていない、単色のスーツやシャツといったシンプルな衣装で歌い踊ってもキマる。シックな衣装では隠せないほどのオーラと若い色気、ギラギラした野心がTV越しにも伝わってくるようでした。

長髪や茶髪、ピアスといったスタイルは他のグループのメンバーにも見受けられましたが、これらもSMAPの「(良い意味で)優等生ジャニーズではない」雰囲気によく似合いました。

ノッてきた6人時代のSMAPは、まさに「無敵」「向かうところ敵なし」と言わんばかりの存在感を放っていたのです。

 

「がんばりましょう」で日本中を勇気づけた

 

SMAPを語る上で外せないエピソードといえば、やはり1995年1月20日「ミュージックステーション」で披露した「がんばりましょう」の歌唱。

「がんばりましょう」は前年の9月に発売されており、SMAPとしては2度目のオリコンチャート初登場1位を獲得した楽曲です。

ミュージックステーション放送の3日前に発生した、阪神・淡路大震災。SMAPは予定していた曲ではなく「がんばりましょう」を披露し、被災者へのメッセージとしました。

 

2011年3月放送の「SMAP×SMAP」では、東日本大震災の被災者に向け同じく「がんばりましょう」を披露。

同番組では、番組終了のその日までチャリティー募金のメッセージを呼びかけています。

「がんばりましょう」は、気だるい毎日を歌った楽曲ではありますが、ところどころに核心をついてくるような、はっとさせられるフレーズが存在します。

苦しいときやつらいとき、胸に届く言葉などせいぜいワンフレーズ。意図して放たれた言葉よりも、不意に耳に飛び込んでくる、必然的に出会うような言葉があるものです。

私自身は震災被害者でないため、震災のつらさやおそろしさについて語る言葉を持ちません。しかし、

 

いつの日にか また幸せになりましょう
空は青い 僕らはみんな生きている

引用:SMAP「がんばりましょう」作詞:小倉めぐみ

 

この「たった一言」に、彼らの笑顔に、支えられた人がきっときっと、たくさんいたのだと思うのです。

 

SMAPが愛された理由~「カッコ悪いほう」を歌えるアイドル~

 

SMAPは、いつでもなんとなく身近な存在でした。

先述したように、快進撃を始めたころのSMAPはとてつもないオーラを放つ存在で、押しも押されぬスーパーアイドルで…手が届くわけなどないのです。

けれど、SMAPはファンタジーの住人ではなかった。

 

私たちと同じように歳を重ね、同じように「今日」を生きている。

たしかにそう思えるアイドルでした。

「カッコ悪いほう」を歌えるアイドル。

私はSMAPをそのように形容します。

だるい日もあるね、カッコ悪い日もあるし、人生って大変だよね、いろいろあるよね…そんなどうにもならない「人生」ってものを代弁してくれる。

鬱屈とした毎日を、歌とパフォーマンスで昇華してくれる。

そこにどうしてかリアリティがある。

そんな存在でした。

 

バラの花束が似合うのも いるのさ
だけど似合わない 転がるように生きていくだけ

引用:SMAP「俺たちに明日はある」作詞:相田毅

 

SMAPは、いうまでもなく「バラの花束が似合う」ほうでしょう。

だけど、いつでも「似合わない」ほうを歌う、そしてキマる。

SMAPが愛された理由。

それは、ファンタジーではなく現実を生きるアイドルだったから。

私はそう思います。

 

かつてアイドルとは、だいたいが20代のうちに解散または引退してしまうのが通例とされてきました。

その常識を打ち破ったのもSMAPです。

全員が30代になっても、40代に差し掛かろうとも、現役で歌って踊り続ける姿、ずっとトップであり続ける姿はジャニーズファンにとって希望でした。

そして元メンバー森と交わした「ずっと一番であってほしい」という約束を、いつまでも守り続けていた。

 

ですから、SMAPだけはいつでもそこにいてくれる、いつまでも変わらず先頭を走り続け、道を切り開いてくれるものだとばかり思っていました。

私の人生において、SMAPがいなくなる日など来るはずがないと思っていた。

SMAPが解散してしまったこと、今でもさみしく思います。

けれどSMAPがいたから、私の平成は楽しかった。

そしていまでもSMAPがくれた元気に、私は支えられて生きています。

 

次のページではSMAPの90年代のおすすめの名曲をご紹介します。

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