テイラーのミートアンドグリートに選ばれた体験談 ~テイラーとSwiftieの繋がり~

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

Taylor Swift(テイラー・スウィフト)入門 ~Taylorに会った筆者が語る~はこちらから!

著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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この章ではTyalorの行ってきた「Swiftie(ファン)との交流」「社会貢献」を通して、Taylorの人格の素晴らしさをお伝えします。私がTaylorをお手本に歌手を目指しているのには、この人格の素晴らしさがとても大きな理由になっています。

このページではTaylorの「Swiftie(ファン)との交流」についてお伝えします。

 

Taylorはファンとの繋がりを大切にする

 

Taylorは昔から、ファンとの繋がりを何よりも大切にしていることでも知られています。

妊娠8ヶ月でホームレス状態だったファンをコンサートのバックステージに招待した上に、家と大量のベビー用品を贈呈したことがあります。度々ファンの結婚式にサプライズ登場し、歌を披露するなどの演出でファンを驚かせています。

Taylorというアーティストを語る上でSwiftie(=Taylorのファンのこと)の存在は欠かせません。

私自身10年間Swiftieでいる中で、Taylorは常にファンの心を大切にしてくれていると実感します。その理由はファンとの交流がほとんどないアーティストも多くいる中で、Taylor は「ミートアンドグリート」を行うなど特にファンとの関わりが深いと思うからです。

Swiftieの交流イベントのミートアンドグリートはTaylorがファンとの繋がりを大切にしているのがわかる顕著な例です。

以下ではミートアンドグリートについて詳しく紹介いたします。

 

【コラム】Taylorが人の心を大切にしていることがわかるエピソード

3歳にしてガンと戦いこの世を去ってしまったRonanという少年の母親が、ブログに天国の息子への想いを綴っていました。少年の母親がファンだったわけではありませんが、その文章を読み心を打たれたTaylorがRonanくんとその家族に宛て、母親とともに「Ronan」を作詞。Taylor自身が作曲をしました。

 

ミートアンドグリートとは

 

Taylorはデビュー当初のコンサートから、ファンを選びコンサート後にバックステージに無償で招待するという「ミートアンドグリート」を開催しています。

ミートアンドグリートではTaylorの母親Andrea Swiftやスタッフがコンサート中に客席から複数人を選び、バックステージに招待します。

招待される人数は毎コンサートごとに少しずつ異なります。私も選ばれたことがあり、その時は会場がさいたまスーパーアリーナだったので、37000人ほどの中から42名くらいが選ばれただろうと思います。

ミートアンドグリートの名称は毎アルバムごとに変わります。”RED”の時は”Club RED”、“1989”の時は”Loft ’89”、 “Reputation“の時は”Rep room”でした。

選ばれる際の基準は「Taylorに対する熱意」です。「一番元気で情熱が感じられる人をコンサート中に探している」とTaylor自身も発言しています。

心からコンサートを楽しみ、奇抜な衣装や凝ったボードなどを製作してきたことが目に見えて分かるSwiftieが選ばれています。

ミートアンドグリートは無償ですが、Taylorとのツーショット写真を撮ったりサインをもらえたり。会話も楽しめ、長い時間Taylorと過ごすことができます。

Taylorのコンサートでは、コンサート中に「ミートアンドグリートに選ばれるかもしれない」というワクワク感も楽しむことができるのです。

 

ミートアンドグリートに選ばれた筆者の体験

 

私は2014年に日本で行われたRED Tourでミートアンドグリートに招待されたことがあります。

当時はまだTaylorのコンサート後のミートアンドグリートについてあまり日本では知られていませんでしたが、私は事前に調べて知っていたため絶対に選ばれたいと考えていました。

コンサートには親友と2人で参加し、服装は完全に同じものにしました。

光るLEDスカートを海外から取り寄せ、Tシャツの表面にはアルバム「RED」に含まれる曲の歌詞を印刷しました。背面には手書きでTaylor Swiftの名前のアルファベットそれぞれを曲名などと繋げたものを書きました。さらに金色のウィッグ、手作りの帽子をかぶっていたので、衣装作りにおいての熱意も十分だったのではないでしょうか。

▼手作りの衣装

 

また、RED Tourの際はボードの持ち込みに関して特に規制がなかった為、かなり大きめのボードにハートのバルーンをつけるなどして工夫を凝らしました。

▼大きめのボードとハートのバルーン

 

準備万端で参加したRED Tourですがコンサート中は初めてTaylorを生で見ることができた感動からミートアンドグリートのことはほぼ頭にありませんでした。

コンサート中Taylorはより多くのSwiftieと触れ合うために、花道や通路を歩きながらハイタッチなどをします。

私も手に触れることができ、まさに感無量でした。

▼手を触れた瞬間

 

そしてコンサート終盤、大ヒット曲「I Knew You Were Trouble」の演奏中ふいに肩を叩かれ振り返ると、スタッフの方数人に「バックステージに来ないか?」と声をかけられました。

そして招待された証に、腕にリストバンドをはめてもらいました。その瞬間号泣して親友と抱き合い喜んだことをまるで昨日のことのように思い出します。

▼リストバンド(黄色いリストバンドが招待された証)

 

コンサート終了後に、まずは選ばれたメンバーが全員揃ったかの確認と、注意事項を一通り説明されました。その後ついにTaylorと会うことのできるバックステージへと通されます。

Taylorがバックステージに現れると1グループずつに丁寧なファンサービスをし、私の番が来るとまずは真っ先に抱きしめてくれました。

私がどれほどTaylorを好きかという想いの丈と、自身の夢を叶え歌手として再び会いたいということを伝え、それを聞いた彼女がとても喜んでくれたのを鮮明に覚えています。

さらに私の名前入りでサインを書いてくれました。

▼名前入りのサイン

▼Taylorの母Andrea Swiftと撮影した写真

 

余談ではありますが実際に選ばれてみて思うことは、選ばれることだけを考えるのではなくそのコンサートを純粋に楽しむことが選ばれる秘訣ではないかと思います。

このようにアーティスト本人と直接触れ合う機会がこんなにも多い海外アーティストはほぼいません。

ファンの心に一生残る、かけがえのない思い出を与えられるアーティストがTaylorです。

 

 

以上、Taylorの「Swiftie(ファン)との交流」についてお伝えしました。

次のページではTaylorの行ってきた「社会貢献」を通してTaylorの人格の素晴らしさをお伝えします。

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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テイラー・スウィフトのデビューまでの道のり

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世界的歌姫Taylor Swift(テイラー・スウィフト)と会った筆者が、Taylorの魅力を紹介。Taylorのこれまでの軌跡・ファンとの交流・社会貢献・音楽の変遷などを知れば、筆者が彼女をお手本にして歌手を目指す理由もわかるはず!

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20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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このページではTaylorがどういった環境で育ち、どのようにして夢を持つようになったのかをお伝えします。

Taylorの道のりを知ることで、夢を追う上で具体的に何をすればいいのかが学べます。

 

【誕生】「Taylor Swift」名前の由来

 

Taylor Swiftという名前は、米シンガーソングライターであるJames Taylorr(ジェームス・テイラー)からとったと言われています。両親がJames Taylorのファンだったことに由来し、Taylorと名付けたそうです。

まるで生まれた時から歌手になることが必然だったかのような由来に思えます。

 

James Taylor(ジェームス・テイラー)とは


By Joella Marano, CC 表示-継承 2.0, Link 

1948年生まれのアメリカ合衆国出身のシンガーソングライター。2000年に「ロックの殿堂」入り。「君の友だち(You’ve Got a Friend)」で1972年にグラミー賞で最優秀楽曲賞を獲得している。

 

【幼少期】クリスマスツリーの農場

 

Taylorは「クリスマスツリーの農場」で育ったという少々意外な幼少期を過ごしました。

その環境はTaylorの歌手としての人生に多大な影響を与えたといいます。

Taylorの自由な歌詞づくりと、型にとらわれないスタイルの音楽創りには、こうした環境の影響が感じられます。

広大な土地を無制限に走り回れる自由な環境こそが、作詞作曲をする上での感性を育んだのかもしれません。

 

【11歳~】いじめの経験

 

Taylorは中学生の時にいじめを受けていました。

Taylorは辛いいじめに遭いながらも、ただ屈することなくその悔しさを音楽にぶつけていました。

毎日血の滲むような努力を重ね、暇さえあれば常にギターに触れていたといいます。彼女の等身大で共感できる作詞スタイルは、この経験からも来ていると思います。

 

Taylorが影響を受けたのは、当然ながら彼女を取り巻く「環境」だけではありません。

Taylorの母方の祖母はオペラ歌手で、テレビ番組の司会者としても活躍していたのです。祖母のMarjorie Finlay(マージョリー・フィンレイ)はオペラ歌手として活躍する一方で、教会の集会でもよく歌っていました。

さらにTaylorは、カントリー歌手LeAnn Rimes(リアン・ライムス)も幼少期から好きでした。こうした人々の影響を受けてTaylorは、歌手になるために多くの人の前で歌うにはどうすべきか考えました。

 

LeAnn Rimes(リアン・ライムス)


By https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/https://www.flickr.com/photos/yodelanecdotal/4008692987/, CC 表示 2.0, Link 

1982年生まれアメリカ出身のカントリー歌手。「ハウ・ドゥ・アイ・リヴ(How Do I Live)」Billboard Hot 100に69週間チャートに滞在し、当時の最高記録となった。同曲は2008年発表のBillboard All Time Top 100(50年間総合チャート)で4位となっている。

 

そこで、学校に通いながらスポーツイベントの開会式の国歌斉唱やコンテストなどの規模の大きいものから、地元のフェスティバルや喫茶店など様々な場所で歌を歌いました。最も有名なものと言えば12歳の時にNBAの試合前に国歌斉唱を行ったこともありました。

幼少期からすでに卓越した歌唱力があり、歌手としての才能は十分だったのです。

 

小さい頃から作詞をしていたと語るTaylor。

Taylorは10歳にして”A Monster in My Closet”という詩を書き作詞コンテストにて入賞しています。幼い頃から作詞における持ち前のセンスを発揮していました。

ペンシルベニア州出身であるTaylorは11歳の頃、アメリカのカントリー歌手のFaith Hillがナッシュビルに移住した後に歌手として成功したことに影響を受け、自分もカントリーミュージックの聖地ナッシュビルに引っ越す必要性があると考えていました。

そのため常々両親にも相談していたそうです。

またその頃、ナッシュビルにある多くのレーベルにデモテープを提出していましたが、若すぎるということもありなかなかその評価は上がらずにいました。

 

12歳の頃のTaylorの逸話に「コンピュータの修理士が家に来た際にTaylorにc,d,gの三つのコードを教え、その日の夜に「Lucky You」という曲を作曲した」というものがあります。

幼い頃から音楽への関心が強かったTaylorは、頭の回転が早い上に大変物覚えが良かったということがわかります。頭の回転が早いことは大人になり成熟した今も変わらぬTaylorの魅力だと思います。

そういった才能が幼い頃からありながらも、なかなか契約には結びつきませんでした。

 

【14歳~】RCAレコードと契約

 

その後、14歳という異例の若さでRCAレコードの養成所と契約したTaylor。Sony ATVミュージックパブリッシング(世界最大の音楽出版社)にソングライターとして最年少で採用されました。

異例の若さの契約を可能としたのは、大きな舞台で国歌斉唱をしたことや、その歌唱力と類まれな外見が認められたからだと思います。

それと同時にTaylorの家族は全員でナッシュビルに転居しました。Taylorに極力プレッシャーをかけないよう気遣った両親は「引越したのはナッシュビルの街が好きだからだ。」と言ってくれていたそうです。

引越しの理由は父親の仕事先がナッシュビルになったというのもありますが、おそらくそれほど引越しの必要性はなかったと思います。Taylorの夢を家族全員で応援していたそうなので、実質上はTaylorのためだったのではないでしょうか。

 

【16歳~】デビューアルバムリリース

 

Taylorは自らの作詞作曲でアルバムを出したいと考えていました。

そんな彼女の要望とは裏腹に、事務所は他のソングライターの曲を歌わせようとしました。またTaylorのアルバム出版は18歳まで待つという方針でした。

自分に意向に沿わなかったためTaylorは事務所を離れる決意をします。

 

そんな中、ナッシュビルにあるミニライブハウス”Blue bard Cafe”でパフォーマンスしていたTaylorに、Big Machine Record(ビッグマシン・レコード)を設立しようとしていたScott Borchetta(スコット・ボーチェッタ)が目をつけました。

Taylorの類いまれなる容姿とその歌声を聴けば、誰しもがスカウトしたくなると思います。

その後着実に話は進み、TaylorがBig Machine Recordの1人目の契約者となったのです。

RCA所属時は事務所の曲作りの方針と合わず悩んでいたTaylorですが「全てを彼女の好きなようにしていい」と言ったScott Borchettaとの事務所契約により、彼女はあっという間にファーストアルバムを手がけることとなります。

2006年10月24日、Taylorが16歳の時にリリースされた『Taylor Swift』は、瞬く間にBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録。

▼アルバム「Taylor Swift」(画像クリックで商品詳細へ)

▼収録曲「Teardrops On My Guitar」 Billboard Hot 100 最高13位

▼収録曲「Our Song」 Billboard Hot 100 最高16位

 

デビューアルバムにしてカントリー界の市場を制しました。こうして彼女のサクセスストーリーが始まったのです。

 

さてアルバム『Taylor Swift』でBillboardのTop Country Chartにおいて1位を記録したTaylorですが、このような成功の背景にはいじめを受けても努力を重ね、引越しの相談、デモテープを送るなどの行動を常にしていたことが要因に挙げられます。

Taylorには才能がありました。ただ才能があったとしても実際に活かせていない人が多くいる中、行動することが何より大切だと気づいていたTaylorは尊敬に値します。なるべくして歌手になったのだと思います。

Taylorが幼少期からどういった活動をしてきたのかその道のりを振り返ると、夢を追う上でより具体的に何をすればいいのかがわかると感じています。

 

 

このページではTaylorのデビューまでの道のりから彼女の魅力と歌手の夢を追う上で学ぶべきことをお伝えしてきました。

次の章からTaylorの人格を通して彼女の魅力や学べることについてお伝えします。

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著者:Sakift

20代前半。幼少期から歌手を志し9歳の時にTaylor Swiftのファンになって以来彼女をロールモデルにしている。RED Tour、1989 World Tour、Reputation Stadium Tourに参加。2014年のRED Tourでは、コンサート後のミートアンドグリート’’Club RED’’に招待され実際にTaylor Swiftと会って話をする。いわゆる空港での『出待ち』も毎回しており、その場でサインをもらったこともある。

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【カンフー映画コラム】キャセイ・オーガナイゼーションとMP&GI

 

シンガポールを本拠地とする企業キャセイ・オーガナイゼーション(国泰機構)は、1956年に香港の子会社MP&GI(國際電影懋業公司)で、本格的な映画製作事業に乗り出しました。

マレーシアの富商の息子として生まれ、スイス・イギリスで教育を受けた陸運涛(ロク・ワントー)氏が代表のMP&GIは、都会的で洗練されたタッチの作品を数多く生み出しました。

葛蘭(グレース・チャン)氏、林黛(リン・ダイ)氏、林翠(リン・ツイ)氏、尤敏(ユー・ミン)氏、葉楓(イエ・フォン)氏といったスター女優を多く抱えて、短期間で香港映画会社ショウ・ブラザーズと並ぶ香港有数の映画会社に成長しました。

しかし、ライバル関係にあるシヨウ・ブラザーズ社と互いの所属するスター俳優やスタッフの引抜き合いなどによる激しいライバル争い等によって次第に経営が悪化していきます。

1964年にアジア太平洋映画祭が行われていた台湾において、ロク・ワントー夫妻や映画関係者の乗った飛行機が墜落し全員死亡するという悲劇によってMP&GIは失速しました。

1965年、ロク・ワントー氏の妹婿によって巻き返しを図りますが、シヨウ・ブラザーズ社がブームの中心にいた「新派武侠映画ブーム」(1960年代後半に起こった主人公が自身の復讐や仇討の完遂を目的とした映画のブーム)の波に乗り遅れたことが決定的となり、1971年に製作部門を閉鎖。最終的にスタジオはゴールデン・ハーベスト社に移譲されました。

▼この頃のカンフー映画の歴史については下記のページで詳しく解説!

 

▼カンフー映画を詳しく学びたい方はこちら!

『カンフー映画入門』(全38ページ)

『ドイツ歌曲』入門

 

 

はじめに

 

ドイツ歌曲とは

 

第1章 ドイツ歌曲。作曲から演奏されるまで

 

詩人、作曲家、歌手とピアニストのコラボレーション

詩人と作曲家のお仕事

歌手とピアニストのお仕事

日本語にないドイツ語、ドイツ語にない日本語

 

第2章 どんな作曲家がいるの?

 

ドイツ歌曲のちょっとした歴史 〜そのはじまり〜

歌曲の王 〜シューベルト〜

シューベルトの後の時代 〜シューマン メンデルスゾーン ブラームス ヴォルフ等〜

オーケストレーションの時代から現代 〜マーラー シュトラウス ほか 〜

 

第3章 すぐ聴ける! 有名なドイツ歌曲演奏家たち

 

お手本です ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ

甘き歌声 ヘルマン・プライ

理知的! テノール ペーター・シュライヤー

美しい名花たち エディット・マティス/エリザベート・シュワルツコップフ/エリー・アメリンク