ロートレックの生い立ち

 

 

ロートレックの生い立ち

生まれ

 

トゥールーズ=ロートレック(正式名:アンリ・マリ・レーモン・ド・トゥールーズ=ロートレック・モンファ)は、1864年11月24日にフランスの南西部にあるアルビ地方で、アルビ最古の城館(じょうかん:貴族などの別荘)と言われるボスク館で大嵐の中、生を受けました。

 

▼アルビの風景(現在)

 CC BY-SA 2.0 fr, Link

 

ロートレックは、750年から1271年までアルビ地方を治めていた名高いトゥールーズ家の直系子孫でした。

 

直系子孫

直接的な親子関係で繋がる系統の事。

 

ロートレックの父親は「アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファ伯爵」、母親はタピエ・ド・セレイラン家から嫁いだ「アデール」でした。

 

 

母親のアデールは、アンベール・デュ・ボスクという人物の姪にあたり、ロートレックの出産準備をするために、ボスク氏が住居として利用していたボスク館に滞在していました。

ロートレックもこのボスク館で少年時代を過ごしました。

 

 

ロートレックの父親の家系であるロートレック家と母親の家系であるタピエ家は過去に婚姻関係を繰り返していたそうで、ロートレックの虚弱体質や骨がもろい原因は、近親結婚によるところもあると考えられています。

 

近親結婚

近親者同士の結婚が行われると病気や奇形などの症状が遺伝子の仕組みにより出現しやすくなる。この理由より日本では三親等以内(一親等:父母、子 二親等:祖父母、孫、兄弟姉妹 三親等:曾祖父母、曾孫、叔父叔母、甥姪)の結婚が禁止されている。

 

少年期

 

ロートレックには兄弟がいましたが、1868年に弟にあたるリシャールが生後1年ほどで亡くなってしまい(ロートレックは1864年に生誕)、以降一人息子として育てられました。

幼少期のロートレックは愛くるしいルックスで、「プティ・ビジュー(小さな宝石)」と呼ばれ、家族からとても大切に育てられてきました。

 

 

ロートレックが8歳の時(1872年)には一時的に家族とパリの高級ホテルで暮らしました。パリにある中学校へ進学のためです。

そこで両親はロートレックをリセ・フォンタヌ学院に通わせました。そこでは将来的に大学進学を目指すための勉強をします。

セ・フォンタヌ学院で、ロートレックはモーリス・ジョワイヤンという友人と出会いました。

 

 

モーリス・ジョワイヤンは、終生にわたってロートレックの良き友達であり、ロートレックが存命中も死後も彼の作品を守り、世に広める役割を果たしました。

 

さらに、このパリの滞在中に、後のロートレックの初めての師匠となる画家のルネ・プランストーと出会います。ルネ・プランストーは父親のアルフォンスの友人で、主に馬を描く動物画で有名な画家でした。

 

 

さらに、この動物画家のプランストーからの触発されたのもあり、この頃からロートレックはデッサンを習慣化するようになりました。

 

デッサン

立体的な対象物をそのまま平面である絵で描く事。

▼例:人間のデッサン

 

当時のロートレックは、使っていた教科書やノートの余白にびっしりとデッサンを描き込んでいたようです。

他にもデッサン以外に、友人のエティエンヌ・ドゥヴィスムが書いた「ココット(1881年)」という馬の生涯をユーモラスに描いた小説の挿絵も23枚ほど描いていました。

このように、ロートレックの画家としての才能は早くから芽吹いたのでした。

 

【著者に聞きました!】師匠の出会っていなかったら・・・

Q.(Webon編集部) ロートレックは師匠に出会っていなかったら才能は開花しなかったと思いますか?

A.(著者:HARUKA) 下に挙げた参考書籍では、幼い頃のロートレックのデッサンを見ることができました。例えば、骨折した際の治療にあたった外科医の絵やベッドで過ごす自画像など、幼いころからデッサンを習慣としていたようです。最初の師ルネ・プランストーに出会っていなければ、ロートレックの絵画の才能は引き出されておらず、パリに出て画家としての活躍はしていなかったのではと想像します。

参考書籍:ロートレックのデッサン (双書美術の泉 13)

 

フランスにおける貴族階級とは?

 

ロートレックの家柄でもある「貴族」とは、フランスではどれくらい高い地位に位置づけられていたのでしょうか?

中世から1790年のフランス革命に至るまで、フランスでは絶対君主制の支配が続いており、フランスの貴族階級は第一身分の「僧侶」第二身分の「貴族」第三身分の「平民」に分かれていました。

僧侶と貴族は「特権階級」と呼ばれ、フランス人口の1%にも満たない人口でしたが、国土の40%を所有していました。

 

 

彼らは特別な権利として、納税義務の免除や帯剣(たいけん:剣の所持)や狩りの権利、教会で特別席、封建制度による荘園の所有権(私有地を持つ権利)などの様々な権利を認められていました。

さらに平民の身分は「市民」と「農民」に分かれました。市民は「ブルジョワジー」と呼ばれ、近代化による生産力の向上によって成長した、ある一定の私有財産を持つ都市住民層を指します。

 

 

ブルジョワジーという言葉は、中世において都市(ブルク)に住む人々という意味から派生しています。

市民は4階級に分かれ、

「上流ブルジョワ(法律家や実業家、特権商人など)」
「中流ブルジョワ(地方商人、産業家など)」
「下層ブルジョワ(商店主、手工業親方など)」
「サン・キュロット(職人、労働者)」

が存在しました。

 

 

さらに、農民も大地主、大借地農、自営農民、小作人の4階層に分かれていました。

 

 

市民も農民も貴族を養うために働き、重税を納めていましたが、政治への参加権はありませんでした。

そのような負担と不満が積み重なり、人民の権利を主張する市民革命がブルジョワジー主体となって起こりました。

第三身分者(平民)を中心に構成された国民議会において、フランス人権宣言が1789年8月26日に制定され、翌年には貴族身分の世襲が制度上で廃止されました。

 

 

このようにフランス革命では封建制度が廃止され、第二身分の貴族や教会の財産は没収され、特権も廃除されました。

しかし、革命によって全ての貴族が一掃されたわけではなく、中には資本家や地主に転身し、貴族であったなごりから富や影響力を持ち続けた人も多くいたようです。

文献によるとロートレックは経済的な心配なくパリに出て来たりしたそうなので、裕福な環境を維持できていたようです。

 

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